『ジャコメッティ』展
於・国立新美術館
会期=2017/06/14~09/04
入館料=1600円(一般)
カタログ=2800円
WOW! 久しぶりのジャコメッティ展で、喜び勇んで見に行った。この美術家は面白いのだ。杓子定規に言えば、初期はシュルレアリスト、中期は実存主義アーチスト、後期はそのどれにも属さない、未来の美術家たちから熱い視線を浴びる大家となった。フランシス・ベーコンと並び、欧米の美術オークションで高値を更新し続けている作家でもある。
もちろんジャコメッティ作品の値段は晩年から高かったわけだが、ご本人は恬淡としていた。一九二六年に借りた比較的狭いアトリエに生涯住み、創作し続けた。ジャン・ジュネはいつ崩れてもおかしくないような家だと書いている。身なりもあまり気にせず、壊れた眼鏡のツルを、無造作にセロテープを貼って直してかけている写真を見たことがある。ではジャコメッティさんは変わり者なのか? まあ間違いなく、そんじょそこらにいない変わり者だと言っていいでしょうね。
ジャコメッティは、比較的若い頃から同時代の詩人や思想家から熱い視線を向けられていた。アンドレ・ブルトンらのシュルレアリストを始めとして、サルトル、ジュネ、ポンジュ、ボヌフォア、シャールらと親交があった。日本人では矢内原伊作との交友が有名である。矢内原は、今ではジャコメッティ研究の基礎資料になっている『ジャコメッティとともに』を書いた。もちろんフランスの同時代作家も貴重なジャコメッティ論を残した。ジャコメッティは文筆家からモテモテだったわけだ。仕事には厳しかったが、普段は比較的社交的な性格だったから、という理由では必ずしもない。優れた物書きさんたちは、そのくらいで美術家に魅了されるほど甘くない。
多くの作家たちは、もちろんまずジャコメッティの奇妙な彫刻や絵に驚いた。しかしパリに住んでいた同時代作家たちは、ジャコメッティと実際に付き合ってみてさらに驚かされた。すごく単純に言うと、ジャコメッティはその作品で見る者を驚かすだけでなく、彼自身が常に、異様な精神の高まりをもって驚いている人だった。普通の人ならなんとも思わないことにジャコメッティは驚く。そしてジャコメッティの驚きは、美術家であるにも関わらず、なかなか現実の形を取らない。絞り出すように作品が生まれてくる。つまり言葉が入り込む余地が多いのだ。
『林檎のある静物』
一九六〇年 油彩、カンヴァス 縦一六×横三二センチ マーグ・コレクション、パリ蔵
ジャコメッティは一九〇一年、和暦では明治三十四年にスイスで生まれた。父のジョヴァンニは画家で長男だった。一歳年下に弟ディエゴがいて、彼は鋳物職人となってジャコメッティの仕事を手伝うかたわら、数少ないジャコメッティのモデルになった。ジャコメッティの洗礼代父をつとめたのは画家クノール・アミエだが、末の弟ブルーノの代父はスイスを代表する大画家、フェルナンド・ホドラーだった。父ジョヴァンニはスイスでそれなりに有名な画家だった。回顧展も開かれている。比較的裕福な画家の家に生まれたのである。
ジャコメッティは父から絵の手ほどきを受けたが、一九二二年、二十一歳の時に彫刻を学ぶためにパリの美術学校に入学した。師はロダンの弟子のアントワーヌ・ブールデル。マイヨールの師でもある。若い頃のジャコメッティは熱狂的なロダン崇拝者だった。またデューラーやティントレットといった古典絵画に魅せられ、盛んに模写した。北斎の浮世絵まで模写している。ごく普通の美術家志望の青年だったのだ。ジャコメッティが愛した画家の中に、印象派の巨匠セザンヌも含まれていた。
『林檎のある静物』は五十九歳の時の作品だが、若い頃から模写してきたセザンヌの林檎が念頭にある。ひと目見てすぐに彫刻家の作品だとわかるだろう。多くの画家たちが魅了された、セザンヌの赤や緑への執着はジャコメッティにはない。少し赤が使われているが、ジャコメッティの油絵はたいてい灰色だ。偶然ではない。「私がグレーにすべてを見るとしたら、今までに経験し、かつて創り出そうと望んだ色彩すべてをグレーのなかに見るとしたら、なぜ他の色を使わなければならないだろうか」と語っている。
グレーの中にすべての色が見えるジャコメッティには、カラフルな色彩は必要なかった。そのかわり異様な執着で人や物の形の本質を捉えようとした。普通の静物画に見えるが、セザンヌには一枚の絵の中に様々な角度から同じ静物を描いたキュビズムの先駆的作品がある。ジャコメッティはセザンヌの、対象を正確に捉えようとする姿勢に最も惹きつけられたようだ。ただ彼は彫刻家である。平面絵画で多面的に描くわけにはいかない。立体で人や物の本質を表現しなければならない。この、彫刻家なら誰もがやっている本質昇華が、ジャコメッティにはとてつもなく難しかった。
少年時代のジャコメッティはデッサンに無限の可能性を感じていた。その時代は「天国」だったと表現している。しかし「この天国は十八-十九歳の頃までつづいたのだが、十八-十九歳のときに、私は、私には何一つ全然出来ないという印象をもったのだった」と言っている。ブールデルの元で修行していた時代については、「一人の人間の全体を捉えることは不可能だった。(中略)たとえば踵とか鼻とかから出発すると、全体に達する希望は全くないのだった」と回想している。人や物の全体本質を捉えることは、ジャコメッティにはとてつもなく困難なアポリアだった。
『鼻』
一九四七年 ブロンズ、針金、ロープ、鉄 高八一・三×縦七一・一×横三六・八センチ 大阪新美術館建設準備室蔵
ジャコメッティは前衛芸術運動が吹き荒れた二〇世紀初頭に大人になった20 Century boyの一人である。ヨーロッパの芸術家にとって、ほぼ全土が戦場になり、同世代の若者がバタバタと戦死した第一次世界大戦は決定的出来事だった。まずチューリッヒの田舎者、トリスタン・ツァラが、「いっそのことすべて破壊してしまえ」と乱暴なダダイズムを始めた。ただ子供のような破壊衝動にいつまでも留まるわけにはいかない。パリの知的なシティーボーイ、アンドレ・ブルトンが、当時盛んになり始めていたフロイト心理学なども活用して、無意識や夢といった超現実(シュルレアル)によって現実(レアル)を変革してゆこうという前向きな希望を掲げた芸術運動を始めた。言うまでもなくシュルレアリズムである。
十九世紀的な印象派系カラリストだった父に絵のてほどきを受け、これも十九世紀の定番だったイタリア旅行で絵の勉強をしたジャコメッティがパリに出て、ポスト・ロダンを目指すブールデルや、ブールデルよりもさらにラディカルに新しい芸術を模索する同世代の芸術家たちに強い刺激を受けたのは当然である。
ブルトンはジャコメッティより五歳年上だが、シュルレアリストたちはロートレアモンやサドをシュルレアリスムの先行作品として〝発見〟し、アフリカン・アートなどを称揚した。初期のジャコメッティも、シュルレアリスム的プリミティブ・アートやアルカイック・アート(初期ギリシャ芸術)などを取り入れている。『鼻』は第二次世界大戦後の一九四七年制作だが、ジャコメッティのシュルレアリスム的代表作である。メインの鼻の長い人間の顔はブロンズだが、その後、ジャコメッティがめったに使うことのなかった針金やロープ、鉄枠なども使用したコンバイン作品である。
初期シュルレアリスムはブルトン、スーポー、エリュアール、アラゴンらの集団的前衛運動だったが、次第にブルトン独裁の性格を強めていった。もちろん功罪を言えばブルトンの〝功〟の部分の方が圧倒的に大きい。ただブルトンは定期的にシュルレアリスト名簿を発表し、シュルレアリズム的ではない作家を容赦なく除名していった。ジャコメッティも一九三五年に除名されている。ブルトンの専横のようだがそうではない。ブルトンは優れた文学者だ。ジャコメッティには確かにシュルレアリズムと決定的にズレている部分があった。
ジャコメッティは「私は全盛期のシュルレアリスムに非常に心を引かれた。その芸術家たちに興味をもったが、実際はシュルレアリスムのグループに属していた期間でもなおこれは一時的な実験だと感じることがよくあった。しかし私はいつか必ず円椅子にかけたモデルを前にやらねばならなくなるだろうと恐怖をもって思っていた」と述べている。
驚くべきことにジャコメッティは、腹の底から「一人の人間の全体を捉えることは不可能」だと悩んでいた。しかもこれは生涯に渡って続いたが、精力的にデッサンや彫刻の仕事を続けながらである。いくら仕事しても彼の理想とする芸術には届かなかった。
ジャコメッティは一時モデルを使って仕事することをあきらめ、記憶の中の物や人を表現しようとした。人間の夢や無意識の解放を唱えるシュルレアリスムが、当時の彼には魔法の方法に思えたのは想像に難くない。しかし彼は、それが「一時的な実験」に過ぎないと予感していた。作品は抽象的だがジャコメッティは本質的に具象作家である。また本質的には社会変革運動であるシュルレアリスムに強く共鳴できる政治性も持っていなかった。
『裸婦小立像』
一九四六年頃 石膏 高八.九×縦三・七×横二・三センチ 神奈川県立近代美術館蔵(宇佐見英治旧蔵)
一九三五年頃から、ジャコメッティはモデルを使った仕事を再開したが続かなかった。三八年にはまた記憶の中の人物を彫刻で作り始めたが像はどんどん小さくなっていった。「私にとって大きな像は虚偽であり、小さな像もやはり許せないものだった。それに、小さな像はいよいよ微小になり、しばしば小刀の最後の一突きで粉になって消滅しまうほどだった」と言っている。『裸婦小立像』はその頃の作品だ。高さわずか九センチほどである。ただ写真で見ると大きな作品に感じられるだろう。優れた作品は、必ずと言っていいほど実物より大きく見える。しかしジャコメッティは苦しんでいた。
「見えるものを見えるまま」に表現するのがジャコメッティの理想だった。普通の美術家は既存の色や形といった技術を工夫してそこに到達(あるいは近接)するわけだが、ジャコメッティはそれができなかった。彼は自分に見えている人や物の本質を的確に表現するために、独自の方法を生み出さなければならなかったのだ。
記憶の中の人物を「見えるまま」に表現しようとすると、それはどんどん小さくなり、ついには無くなってしまったというジャコメッティの回想は文字通りのものである。こんな形でリアリズムを追求をした美術家はジャコメッティ以外にいない。これからも現れないだろう。サルトルがジャコメッティ彫刻に狂喜したのは当然だ。
『嘔吐』に端的に表現されているが、サルトルは現実事物の本質に虚無を見た。ジャコメッティのグレーであり、縮小して消え去ってしまう無である。ただそれはなにもないという意味での無ではない。存在元型とも呼ぶべき不気味なエネルギー総体である。彼はその不気味さに嘔吐したのだった。ただ神の不在の後の実存は再構築されなければならない。サルトルにとってジャコメッティは、彼の実存思想を最も端的に表現する美術家だったろう。(後編に続く)
鶴山裕司
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