小原眞紀子さんの 『金魚エセー』『No.007 宇治まで(後編)』をアップしましたぁ。京都旅行のエセーです。いよいよ源氏の『宇治十帖』の舞台の訪問です。といっても宇治も観光地化されていて、源氏物語ミュージアムが建っています。『宇治十帖』の名場面が人形などを使って再現されているようです。短編映画も上映されていて、その中で浮舟が宇治川に身を投げるシーンがあったようです。でも源氏には川に身を投げたとは書いてないんですね。
小原さんは、『宇治川を実際に見れば解ける。助かるはずがないのである。生まれてから一度も泳いだことなどない姫が着物を着たままで入って、生きて戻ってくるなどあり得ないのだ。千年の時を経て、流れはいくらか穏やかになったかもしれないが、まったく寄る辺のない大河である。源氏物語はリアリズムの作品なのだ』と書いておられます。そーなんだなぁ。平安時代頃の宇治川は、もちろん護岸整備などされていなくて、凄まじい流れだったようです。ちょい時代は下りますが、『更級日記』などに当時の宇治川の記述があります。
また小原さんは、『いずれ覚悟をもって身を投げるには、水面を見つめなくてはならない。それには昼間の光が必要である。水と陸との綾目も分かたぬ闇の中では、人は足を滑らせて水に落ちることしかできない。落ちて溺れた先が水なのか闇そのものなのか、最期まで分からぬのではないか。浮舟が身を投げた先は宇治川ではなかったが、人の闇そのものだった。浮舟の物語にとって重要なのは、死を覚悟して身を投げることではなく、そのようにして死んだ、と人に思われたことだろう。浮舟は死者の目で、現世の人々を眺めることになる』と書いておられます。このあたりは『文学とセクシュアリティ-現代に読む源氏物語』を併せてお読みになると、もっと理解が進むと思います。
帰りの新幹線の中で食べるのだと、一つずつ包まれたばってらを四切れと太い竹輪を買った。寿司に醤油なんかいらないよ、と店の小父さんは言い、でも竹輪に付けてあげる、と結局くれた。牡蠣を売る店の隣りでは白ワインが飲めて、ひどく混み合っている。樽の上に荷物を置き、止まり木に押し合いへし合いしながら言葉を交わして客が入れ替わる。厚岸と長崎の牡蠣を食べ、グラス一杯でぽっとなった耳に響く喧騒が外国語なのか京都弁なのか、もう定かでない。京都の人たちは冷たくはなかった。夕闇の迫る市場はごった返し、うんざりもしていなかった。
エセーの最後も魅力的です。小原さん、エセーが上手いなぁと思いましたですぅ。
■ 小原眞紀子 『金魚エセー』『No.007 宇治まで(後編)』 ■