このような直截的な象徴としての場面を欲するのは、現代の私たちの感性であり、またヴィジュアル化の要請でもある。それは単に場面を付け足すに終わらず、ストーリーを歪め、思想を変えてしまいかねない。が、しかしそれでも私たちの脳裏には、物語はそんなものとして記憶される。
実際のところ、薫の君は姉妹の父である八の宮に私淑し、宇治に通い始めるのである。不遇の宮である八の宮の諦念に、出生の秘密を抱えた厭世的な薫が共感し、仏道の教えを乞う。娘たちがいることは知っていても、山育ちの姫に期待はしていないが、八の宮の望みもあって保護者としての役回りを演じることになる。まあ結果として、彼女たちの美しさを「見い出す」のだから、メッセージの強度としては合っているとも言えないこともない。
それでも廬の外からたまたま覗いて姉妹を「発見」したというイメージは、何ごとかを決定的に変えてしまう。薫の君が大姫を愛し、彼女が早逝した後も執着を捨てきれないのは、偶然の出会いから生じたものではない。薫の君が仏道に邁進しようとするのはその出生の秘密による必然であり、ならば八の宮への私淑もそうである。大姫への愛着はその延長線上にある宿命(すくせ)であり、それは現代の私たちが日常での「偶然の出会い」を「運命の人」と呼びたがるような、あてどない錯覚とは違う。執着を捨てるべく仏道に邁進し、そこに執着する女性を見い出すという宿命は、もちろん絶対矛盾ではあるが、錯覚ではない。人間とはそういうものだ、という確信のもとに書かれてもいる。
そして浮舟は入水しない。死のうとして屋敷の外へ出たところで、宇治川の激しい水音が響く闇に怯え、屋敷の前で意識が朦朧となる。美しい男の姿をした物怪にさらわれるように導かれ、院の裏庭に倒れていたところを横川の僧都の弟子が見つける。
私たちの現代の感覚からすれば、自殺を決意した者を描くのに、少なくとも未遂の行為はしてもらわないと絵にならないと思う。いや、当時の物語とてそうだったはずだ。見どころの計算はできるはずの著者・紫式部はなぜ浮舟を入水させなかったのか。
その疑問は、宇治川を実際に見れば解ける。助かるはずがないのである。生まれてから一度も泳いだことなどない姫が着物を着たままで入って、生きて戻ってくるなどあり得ないのだ。千年の時を経て、流れはいくらか穏やかになったかもしれないが、まったく寄る辺のない大河である。源氏物語はリアリズムの作品なのだ。
ただ、そのような消極的な理由でのみ、浮舟をして躊躇わせたと考えると、また少し違うだろう。そういう思い切りの悪さこそ出来の悪い小説の最たるもので、そこには古代も現代もないはずだ。しかし、実際に水に入らなくてはインパクトに欠ける、と感じる我々を取り巻く生活環境は、古代とはおおいに異なる。
死を決意して家人の寝静まった後、一人で外に出る。京の街中ですらない、そこは漆黒の闇である。我々現代人にとっての夜ではない。想像もつかぬ闇そのものだ。どちらへ向かうべきか、わからなくて当たり前だ。そこに激しい川音が響いている。
浮舟が外に出た瞬間から、彼女を取り巻く空間は川の中と変わらない過酷なものだった。方向感覚を喪い、鳴り響く水音の恐怖にすでに溺れていた。家の中に後戻りすることは可能だったろうが、それはしなかった。入水はしなかったのだから、死の決意が固かったのではなく、もはや戻るところがない、という諦めだけはあったと思うべきである。
そのようにこの世の外に押し出されてしまうことの方が、一時の勢い、ドラマチックな覚悟で身を投げることよりも決定的なのではないか。リアリティの問題は別としても、もし入水した浮舟が何かのはずみで助かったとしたら、あれは恐るべき気の迷いであった、と振り返るばかりで、すべて元の木阿弥になりかねない。
いずれ覚悟をもって身を投げるには、水面を見つめなくてはならない。それには昼間の光が必要である。水と陸との綾目も分かたぬ闇の中では、人は足を滑らせて水に落ちることしかできない。落ちて溺れた先が水なのか闇そのものなのか、最期まで分からぬのではないか。浮舟が身を投げた先は宇治川ではなかったが、人の闇そのものだった。浮舟の物語にとって重要なのは、死を覚悟して身を投げることではなく、そのようにして死んだ、と人に思われたことだろう。浮舟は死者の目で、現世の人々を眺めることになる。
源氏物語ミュージアムを出て、すぐ先に宇治神社と宇治上神社がある。八の宮邸はこの辺りを想定されたのではないか、と言われているので感動した。歴史的事実の名跡ではなく、紫式部の想念の旧跡(かもしれない)ということに。単純なファン心理である。
宇治川べりで、どの橋を渡るべきかと眺めていた私たち母娘に、日よけ帽を被った年配の女性が声をかけてくれた。どこへ行きたいのか、と問われて、平等院へ、と答えて初めて平等院に行きたいのだと自覚したという按配だった。他に観光客は大勢いたのに、私たちだけがどこに行きたいかすら不分明に見えたのだろうか。昨日に引き続き、京都の人は冷たくはない。四条の辺りの人あしらいは冷たいのではなく、うんざりしているのだ。
二日に渡り、天気だけはよかった。うらうらとした陽に大きな橋を渡り、宇治川の現世の側に藤原氏ゆかりの平等院はあった。改装は済んで綺麗になっていて、展示品も多かった。
私たちはJRでなく、近くに見えた京阪宇治駅から京都駅へ帰ることにした。そのことで宇治までの距離を思いもよらず実感することになった。六地蔵での乗り換えは、乗り換えというものではなく、ほとんど途中下車だった。誰彼構わず道を尋ねようとする母に閉口しながらバス停を過ぎ、川べりを歩いて土手を降り、いくつも角を曲がってやっと地下鉄の駅に着く。地下へ潜れば、変わりばえのしない駅たちが時間をかけて流れる。その単調さは往還したプリンスたちの目に映る、どこまでも続く山と草原に似ていたかもしれない。ひとつずつ現れる駅の名は妙に魅力的で、その名を刻む無機質な白いホームは歴史の墓みたいである。
どんなツアーにも組み込まれてないという錦小路(旅行代理店に旨味がないからだろうか)に母は行きたいと言い、確かにわかったのは、やはりそこは金沢の近江町市場などとは比べものにならなくて、京都に小さなアパートを持ち、ここで買ったものでしょっちゅうパーティするというアイディアが誰でも一瞬、頭をよぎるということだ。
帰りの新幹線の中で食べるのだと、一つずつ包まれたばってらを四切れと太い竹輪を買った。寿司に醤油なんかいらないよ、と店の小父さんは言い、でも竹輪に付けてあげる、と結局くれた。牡蠣を売る店の隣りでは白ワインが飲めて、ひどく混み合っている。樽の上に荷物を置き、止まり木に押し合いへし合いしながら言葉を交わして客が入れ替わる。厚岸と長崎の牡蠣を食べ、グラス一杯でぽっとなった耳に響く喧騒が外国語なのか京都弁なのか、もう定かでない。京都の人たちは冷たくはなかった。夕闇の迫る市場はごった返し、うんざりもしていなかった。(了)
小原眞紀子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■