池田浩さんの文芸誌時評『No.017 小説すばる 2015年11月号』をアップしましたぁ。特集『ごはんと読書』を取り上げておられます。池田さんは『「ごはんと読書」というタイトルになんとなく心惹かれるのは、ごはんを食べることと読むこととが似ているからに相違ない。・・・読書の快楽とその滋養を、身体的な感覚を通して説得する役割を担っているのは、もとより読者志向であった大衆文芸誌以外にはない。そしてそういう説得が必要なほど、読書はある種、特別な趣味になりつつある』と批評しておられます。
人間の知的活動に占める読書のパーセンテージが下がっているのは確かです。ヴィジュアル主体の情報はもちろん、ゲームやアニメなどのクオリティがものすごく上がっていて、そこからでも人間の情操は生育できるようになったからです。ただま、読書は毎日のごはんと本質的に似た点があります。言葉だからです。言葉がなければ、科学も経済もここまで発達してこなかったのです。その基本能力を鍛える上で読書は今も重要です。文学メディアの問題として言えば、愛やセックスや社会での悩みなど、今ではゲームなどでも伝達できる幸福や苦悩を、現代において文学はどう表現すべきかといふことにあるでせうね。
作家が文学を取り巻く環境が大きく変わったという認識を持たなければならないのは言うまでもありません。また文字で物語や詩を書き、それを読者に提供するとはどういうことかを考えなければならないでしょうね。もちろんそんなことを原理的に考える作家は、ひと時代に数人しか現れません。明治で言えば子規や漱石、鴎外らですね。ただそういう作家たちが現れれば現代が抱える問題はある程度共通認識化され得ると思います。文学金魚が文学業界のベンチャーとして現れたのもそのためです。新しい時代に対応するには新しい器や認識が必要です。すべては作家にかかっていますが、作家を選ぶのはメディアの責任です。
■ 池田浩 文芸誌時評『No.017 小説すばる 2015年11月号』 ■