特集に「ごはんと読書」とある。なかなか心惹かれる昭和なタイトルであり、内容もまた読んでほっこりふうのところがタイトルに合っている。さてその昭和の時代、文芸誌は読むべき文学作品を並べていたものだったし、だからこそ書き手は文芸誌に作品掲載されることを目指していたし、そこに書き続けるうちに作家としての方向性がみえる、それを読者が見守るのだった。
もちろん、そんな都合のいい媒体が現代に生き残れるわけはない。読者はそんなものを見守る筋合いはないのだ。したがって文芸誌は、書き手志望の読者の教育か、少しでも読み手の快楽に資するか、という二つの方向性を探ることになる。そんなことは考えてみれば当たり前なので、むしろこれまでの方が不思議だ。“ 文学 ” の雰囲気、権威を信じる層がいた時代の話である。
確かに純文学誌は “ 文学 ” を前提としていて、大衆小説誌はもとより読者志向であった。ただ、どちらともつかない中間的な小説誌があったのも確かだし、小説すばるはそういうものだった。純文学誌であるすばるとの差異が、たとえば文學界とオール讀物ほどには明確ではなかった。
この「ごはんと読書」は、その中間的な立ち位置をよく示しているかもしれない。すばるだったら「ごはんと小説」になったかもしれず、つまり書くこと、あるいは書かれたテキストにおけるごはん、についての特集になっておかしくない。すなわちごはんを描くこと、だ。
「ごはんと読書」というタイトルになんとなく心惹かれるのは、ごはんを食べることと読むこととが似ているからに相違ない。好き嫌いがあり、メニューを選び、咀嚼して身になる。読書の快楽とその滋養を、身体的な感覚を通して説得する役割を担っているのは、もとより読者志向であった大衆文芸誌以外にはない。そしてそういう説得が必要なほど、読書はある種、特別な趣味になりつつある。
しかし一方、奇妙なことにそれについて考えるとき、イメージされるテキストはたいていやはり食べ物について書かれたものなのだ。本来なら、どんなテキストを読書してもごはんを食べることに通じるはずで、そうでなければ「ごはんと読書」は成り立たない。
この特集でもそうで、さらにイメージされるおいしいごはんのごときテキストは、その快楽が視覚的、また音やリズムの点でも、言葉が身体を通して発され、受け取られるものであることを思い出させるものでなくてはならない。手触りや歯触りがなければ、テキストはやはりごはんのようには食べられないらしい。
このことはそして、ストレートに書き手の意識に繋がるものだ。ごはんのように食べられるテキストを読者が評価するからではなく、より直裁に作ったものを食べさせたい、という欲望が喚起される。書き手と読み手は同一のものではない。が、その欲望が共鳴し、通じ合うことが言語体験の快楽として認識される瞬間、確かに純文学も大衆小説もない。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■