月岡耕漁 「能楽図絵」より「綾鼓」
【公演情報】
公演名 横浜能楽堂特別公演
鑑賞日 2月21日
演目 狂言〈石神〉(大蔵流)、能〈綾鼓〉(観世流)
出演 能〈綾鼓〉(あやのつづみ)
シテ(老人・老人の霊)浅見 真州
ツレ(女御) 武田 宗典
ワキ(延臣) 福王 茂十郎
アイ(従者) 善竹 隆司
笛 松田 弘之
小鼓 林 吉兵衛
大鼓 國川 純
太鼓 小寺 佐七
後見 武田 宗和 浅見 慈一
地謡 浅井 文義 岡 久広
小早川 修 馬野 正基
北浪 貴裕 長山 桂三
谷本 健吾 安藤 貴康
監修 竹本 幹夫 三宅 晶子
今年2月21日に横浜能楽堂の特別公演として観世流による〈綾鼓〉が上演された。〈綾鼓〉は宝生流、金剛流や喜多流の現行曲で、人気の演目である。しかし観世流では江戸時代以前から廃曲になり、正式なレパートリーに入っていない。今回の公演では、天文24年(1555年)の奥書を持つ観世元頼節付本を基にした台本が使用され、観世流〈綾鼓〉の復曲が試みられた。
〈綾鼓〉の内容は多分誰でも聞きなじみのある物語だが、その典拠は未詳。筑前の木の丸の皇居で庭掃の仕事をしている老人がある日女御の姿を見かけ、恋に落ちる。皇居の延臣に呼ばれ、庭の桂の木に付けてある鼓を鳴らせば、女御は再び姿を見せてくれると言われた老人は、期待を抱いて必死に鼓を打つが、音が出ない。革の代わりに綾を張った鼓なので、音が出るはずがない。老人はそれを知らずに打ち続けて、やがて音が出ないことに絶望し、池に身を投げてしまう。老人の死の知らせに驚いた女御は、延臣と一緒に池のほとりに様子を見に行く。女御の耳には、池の波は鼓の音に聞こえしまう。老人に鳴らない鼓を打つように命じた女御は後悔の思いにとらわれる。そこに悪鬼になった老人の亡霊が池から立ち上がり、怒りに怒って女御を責め始める。彼女に憑き、音の出ない綾の鼓を鳴らせる。苦しみに耐え切れなくなって泣いている女御の姿を見て、恨みの言葉を繰り返しながら、老人の亡霊は池の底に帰る。
この物語は、観世・金春流の現行曲〈恋重荷〉の内容にとても似ている。〈恋重荷〉では、女御に恋した老人に課せられたのは、綾張りの鼓を鳴らすことではなく、綺麗な布に包まれた重荷を持ち上げることであった。もう一つの大きな違いとして、〈恋重荷〉では鬼になった老人の亡霊は恨みを晴らした後、女御の守護神になるのだが、〈綾鼓〉では最後まで恨みの心を変えず、成仏せずに姿を消す。
世阿弥の能楽論『三道』(1423年成立)では「恋の重荷、昔、綾の大鼓(あやのたいこ)也」と記されており、〈恋重荷〉は〈綾の大鼓〉という古い能の世阿弥による改作であることが分かる。しかし〈綾の大鼓〉は現在〈綾鼓〉というタイトルで知られる能の基になった曲であり、『三道』が執筆された4年後、観世座による〈綾鼓〉の上演記録が残っている。つまり、世阿弥時代の観世座では一時期〈綾鼓〉と〈恋重荷〉両方が存在し、演じられていたわけである。どうして当時の観世座のレパートリーに、あらすじのとても類似した二つの演目が同時にあったのか?
『三道』や『申楽談儀』のような能楽論の内容から見ると、その時期の世阿弥は時勢に応じた能の改作を目指していたようだ。古くからあった演目を捨てることを固く戒め、積極的に古作の能に新しい工夫を入れることに力を入れていた。世阿弥の言葉を見てみると、「本風を以て再反(さいへん)の作風也。其当世々々によりて、少々言葉を変へ、曲を改めて、年々去来の花種をなせり」と『三道』に書いてある。基になった演目を作り直して、言葉を少し変えて、謡の旋律にも手を入れることで時代に合った芸の魅力を生み出した、という意味になる。
時代の流れは社会に様々な変化をもたらすし、能の観客である人々の考え方や好みも変わる。それは室町時代も現在も同じである。では新しい時代の観客が面白いと思うような能は、どのような見どころがあればいいのか? 演出の面でも、詞章や謡の面でも世阿弥は色々な工夫を試してみただろう。能〈綾の大鼓〉から改作された〈恋重荷〉の場合、後場の悪鬼が最後に善神に変わることによって、めでたい雰囲気で終わる。(その結末はどう見ても説得力を欠いているのだという意見もあるけれど、アグレッシブに振舞う鬼姿の主人公にも成仏の希望を与えようという良心な試みとして面白いし、当時の観客には新鮮な設定に見えたに違いない。)
一方、〈綾鼓〉は原曲の〈綾の大鼓〉、つまり古作の能の様子を伝えていると思われる。恋心を笑われ、騙された老人の恨みが晴れないままで終わるので、やはり真直ぐで飾り気のない人情がこの演目の中心的なテーマになっていると解釈していい。怒りと恨みで暴れる鬼とそれに憑かれて苦しんでいる高貴な女性の姿を見て、そのドラマを単純に面白いと思う室町初期の観客の好みが目の前に浮ぶ。
今回、観世流の〈綾鼓〉の復曲化によって、世阿弥時代の観客が観ていた能の再現も同時に試みられた。シテの役をつとめた浅見信州氏はこの演目の復曲の挑戦を受けて、謡いの節付けと所作の構成を担当し、観世流らしい〈綾鼓〉を見せてくれた。能演目の復曲の難しさは、舞いの型や謡いがいつものように師匠から弟子へと伝承されていないことにある。古い節付本を参照にしても、役者は謡い方を自分の耳で聴いたことがなく、初めて謡うことになるのでかなり戸惑うだろう。世阿弥が行っていた改作と同じようなプロセスが展開していると言える。
能楽が現在まで歩んだ歴史の中にこそ演目の魅力を生かすヒントがある。今回の公演のような復曲または演目の改作といった試みを見ると、能楽の伝統そのものに十分な再生力があると思えてくる。世阿弥自身が持っていたような前進的な精神で、能が常に目指してきた様式に忠実な形で面白い工夫を試してみることも、能が能であることに沿っているのではないか。
ラモーナ ツァラヌ
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