唐組・第63回公演『ジャガーの眼』
公演日:2019年05月11日
劇場:東京花園神社 紅テント
作:唐十郎
演出:久保井研+唐十郎
出演:久保井研、藤井由紀、岡田悟一、福本雄樹、福原由加里、加藤野奈、全原徳和、内野智、大鶴美仁音、月船さらら、重村大介、オバタアキラ、藤森宗、山田隼平、新美あかね、藤尾厚弥、山本十三
唐十郎は状況劇場の主宰(俳優と脚本・演出を兼ねた)として知られるが、一九八八年に状況劇場を解散して唐組を旗揚げした。『ジャガーの眼』は一九八三年初演なので後期状況劇場の作品である。唐組の久保井研さんが演出しておられる。が、演出に唐十郎の名前もあることからわかるように、かなり忠実に初演演出を引き継いでいる。演出だけではない。劇団の運営方法も状況劇場・唐組のままだ。
観覧希望者は昼過ぎに整理券を求めて並ぶ。座席指定ではなく整理券番号順に入場できるからだ。いい席で見たいなら早い番号をもらわなければならない。ただし開演は夕方からだから数時間は空く。もちろん客席に椅子などない。土間に薄い座布団だけ。しかも大入り満員で、詰め込めるだけ客を詰め込む。劇場はもちろん紅テント。要するに掘っ立て小屋。演劇をやるなら自分たちで小屋も舞台装置も作って本を書いて演じればいいという、寺山修司-唐十郎のアングラ演劇の精神そのままである。
こういった仕組みは綺麗な劇場で快適な椅子で演劇を見る新劇へのアンチテーゼから始まった。しかしアンチで終わらなかったのがアングラ演劇の偉大さである。アングラはタブーに触れ、かつそれを反転させる。昔々は役者のことを河原乞食と呼んで蔑視した。現在では禁句で放送禁止用語のようだが、江戸の役者が下賎の者であり大スターだったのも事実だ。アングラには役者や演劇は賎であり聖であるという思想がある。その両方を際立たせるためにテントは不可欠なのだ。
『ジャガーの眼』は一九八三年に亡くなった寺山修司への唐十郎なりの追悼である。寺山の演劇論集『臓器交換序説』を参考にもしている。NHKの芸術劇場かなにかでテレビ放送されたので、唐戯曲では最もよく知られた作品の一つだ。しかし唐作品である。そんなに単純ではない。寺山追悼や臓器交換というテーマはあるが、物語はどんどん唐十郎の世界に染まってゆく。
幕が開くと例によってサンダル探偵社の田口(久保井研)が現れる。狂言の太郎冠者と同じで、唐は田口という登場人物の名前を頻繁に使った。田口が登場すれば唐戯曲が始まったという気がする。唐にとって田口は根源的な人間存在だということだ。
田口は探偵として路地を探っているつもりだったが、住民たちからのぞき魔だと吊し上げられる。寺山の覗き事件を踏まえている。住民たちは社会を代表しており、社会道徳を破る者を排除しようとする。しかし覗きはきっかけに過ぎない。唐の思想は排除される方の側にある。
田口はサラマンダ(月船さらら)を車椅子に乗せて連れ歩いている。アベックで張り込みした方が疑われないからだ。しかしサラマンダは等身大の人形でありよけいに目立つ。だが田口は気にしない。彼の目の中でサラマンダは生きて動いている。サラマンダも自らが人形だと知りながら田口に恋している。やがて舞台の上で、サラマンダは生命を得て動き出すことになる。生命のない者(物)への執着が物語の原動力になってゆく。
少年ヤスヒロ(大鶴美仁音で唐十郎の娘さん)が舞台に飛び込んで来る。声変わりしていない中学生だ。彼は死んだ飼い犬チロを抱えている。まだチロの身体は温かい。田口にチロを生き返らせて欲しい、自分の心臓と交換してもかまわないと訴える。次いで主役のしんいち(福本雄樹)とその恋人夏子(福原由加里)が登場する。しんいちは角膜移植手術を受けたが手術後から異変が起きはじめた。まったく知らない他人の目で世界を見ているような気がする。自分が体験したことのない記憶が蘇ることもある。
家に帰ると誕生日でもないのに、蝋燭の火が燃えるバースデーケーキが机の上にある。ヒロインくるみ(藤井由紀)が置いたのだ。しんいちは闇で売買されていた角膜を移植してもらった。元の持ち主はシンジでくるみの恋人だった。交通事故で亡くなった後に、密かに角膜を売られてしまったシンジの面影をくるみは探し求めていて、ついにしんいちがシンジの角膜の持ち主だと突き止めたのだった。しんいちに夏子という恋人がいて結婚間近だと知りながら、しんいちの角膜に自分と暮らした過去の思い出を蘇らせ、強引に夏子からしんいちを奪おうとする。
くるみ この辺には、ジャガーの眼を持った男がいる。生きるのも他人、愛するのも他人、そして死ぬのも他人ならば、その他人の闇夜を抜けて、らんらんと生きるジャガーの眼がある。それは三度生き、これからも生きようとするジャガーの眼。その目の光りに近づくためにホシになり、その在りかを見るために探偵になったあたしを、上司、まだ社員と言ってくれるでしょうか。
田口 くるみ! その眼はどこだっ。
くるみ その眼に浴されたい。その光にこの体を包ませ、あたしはどんな他人か見せたい。上司、これでも探偵と言えるでしょうか。
田口 大探偵!
くるみ まだ会わぬその眼、その眼に近づくためには娼婦になっても、くるみを鳴らすこんなホシを、上司、突き出しませんか?
田口 ゆけぇっ、くるみ!
(唐十郎『ジャガーの眼』)
唐戯曲では登場人物たちはもつれた糸のように絡み合う。人形のサラマンダが田口に恋しているのは、彼が「追い切れない何かを追っている」からだ。サラマンダは自分のような「冷たい肌の人形なら、それが(実現)出来る」と言う。サラマンダはさらに、「くるみを追うと不幸になります。くるみも不幸を承知です。しかし、それを尻拭いしようとするあなたは、きっと。もっと不幸になるでしょう」と言いつのる。
もちろんサラマンダは田口を止めようとしているわけではない。サラマンダは予言めいた言葉を口にし、やがて動きを止めて人形に戻るがその役割はくるみに引き継がれる。現実世界で「追い切れない何かを追っている」者がくるみだからだ。サラマンダはくるみと張り合いながら田口を不可能な欲望の方に追い立ててゆく。
『ジャガーの眼』では冒頭から、「生きるのも他人、愛するのも他人、そして死ぬのも他人」という、寺山がマルセル・デュシャンから引用した言葉が何度も繰り返される。恋人や夫婦だろうと人間同士は他人だ。決して底の底までわかり合えない。しかしくるみは「他人の闇夜を抜け」ようとする。田口は他者との直接的な相互理解を求める者こそが「大探偵」だと言う。田口とくるみはジャガーの眼を追う。
Dr・弁 移植して百三日! キリストが荒野を彷徨った日にちをお前も生きた。
しんいち (頬に垂れる涙を拭こうとする)
Dr・弁 そして今、お前はしんいちの目になったんだっ。
しんいち いえ。
Dr・弁 目の言葉で言え。
しんいち これは今でも、ジャガーの目ですっ。
驚き、あきれ、サッと、Dr・弁もインターンも診察台から飛び下りる。
Dr・弁 ジャガーの目とは?
しんいち 僕と他人の谷間を越えた――。
Dr・弁 それじゃあ、これも!
インターン達 (しんいちの身体をつかみ)
Dr・弁・インターン達 ジャガーの体か?
しんいち 分からないんです。どんどん分からなくなってくんです。
Dr・弁 君は君だぞっ。
しんいち だからどっかにやって下さいっ。(と、つむったその目に、五本の指の爪立てる)
Dr・弁 (手を摑み止め)肉体の一部を追う者はなく、追われようとする一部などありゃしない。
(同)
登場人物たちの関係性は錯綜しているが、唐戯曲では意外なほどベビーフェース(唐十郎的善を追い求める主人公)とヒールフェース(悪役)がきっちり分かれている。田口とくるみの行動を邪魔するのは最初は「扉」として、次いで「眼帯をした男」になって現れる登場人物である。劇の冒頭で田口を吊し上げた路地の住人たちはその後、文字通り背中に大きな扉を背負って舞台に再登場する。横一列に並んで壁となり、何度も田口やくるみの行く手を阻む。その代表が「扉」で「眼帯をした男」になるわけだ。
社会常識を代表する「扉」は、角膜に亡き人の生命と意志を認める田口とくるみを嘲笑する。次いで「眼帯をした男」となり角膜を売ったのは自分だと嘘をつき、彼らから摩訶不思議な角膜を奪おうとする。社会の、秩序を破る者を排除したがるが、その富が貴重なら手の平を返したように欲しがる二面性が二役となり、同じ役者によって演じられる。また田口とくるみがコンビでジャガーの眼を追うように、「扉/眼帯をした男」はDr・弁と組む。
Dr・弁はしんいちに角膜を移植してやった医者だ。彼自身、臓器移植を受けまくっていて、身体中にたくさんの臓器の模型を貼り付けた異形の姿で舞台に登場する。Dr・弁は「肉体の一部を追う者はなく、追われようとする一部などありゃしない」と主張する。シンジの角膜を通して過去が見え、記憶が蘇ってしまうしんいちを、自らの存在をもって否定する。
Dr・弁の言うとおり臓器に意志などない。しかししんいちには確かにシンジの目で世界が見える。夏子という恋人がいるのにシンジの恋人だったくるみに惹かれ始めている。「分からないんです。どんどん分からなくなってくんです」としんいちは惑う。
『ジャガーの眼』は大局的に捉えると、しんいちを中心に据えた「田口-くるみ」と「扉/眼帯をした男-Dr・弁」の戦いの物語である。当然常識の側に立つ方が存在感が強い。状況劇場の初演では「扉/眼帯をした男」を六平直政が、Dr・弁を状況劇場解散後に新宿梁山泊を旗揚げした金守珍が演じた。この二人のヒール役にはアクの強い俳優が必要だ。
唐組では内野智と全原徳和が演じたが、初演を上回るような好演だった。内野は扉と眼帯をした男をほぼ完全に演じ分けていた。一人二役だということに気づかなかった観客も多かったのではなかろうか。若い巨体を持ち、常に口を半開きにした全原のDr・弁は実に不気味だった。久保井の的確な唐戯曲の理解がなければ生まれなかった演出だろう。
またしんいちの恋人夏子を演じた福原由加里も魅力的だった。夏子は『ジャガーの眼』で唯一どこにでもいる普通の人間である。奇怪な登場人物たちに翻弄され、常識的人間であるがゆえに、やがて劇の世界から弾き飛ばされてしまう役を演じるのは難しい。唐組には当て書きしたくなるような役者が多い。
座付作家がいる劇団では多かれ少なかれ、作家は戯曲を書く際に劇団員の姿形や声、性格などを思い浮かべて当て書きする。大所帯の劇団では少しでも多くの役者を舞台に上げるために登場人物を増やすことも行われる。だから初演の記憶(記録)が重要になる。状況劇場・唐組のように唐十郎が本を書き、役者として登場し、演出をも手がけていた場合はなおさらのことだ。
ただ唐戯曲の再演は難しい。唐戯曲にはセオリーといったものがほとんどない。大局的な対立項は指摘できるが、起承転結に沿ったスッキリとした物語展開は存在しない。また劇の冒頭では登場人物に名前がない、途中で役名が変わる、同じ役者が二役を演じてそれが戯曲の重要な要素になる(ただし必ずしも脚本では指示されていない)など、テレビドラマや映画に慣れた人から見ればハチャメチャだ。
では唐の脚本が現実離れした空想という意味で詩的なのかというと、まったくそうではない。むしろ猥雑だ。地口、洒落、性的冗談などが次々に登場人物たちの口から発せられる。現実世界の底辺から湧き上がってくるような露骨で俗な言葉が舞台に溢れ、それが臨界に達してふと聖なるものが顔を覗かせるのが唐戯曲の世界である。
役者は大変だが唐戯曲の言葉数は多い。厚い本が多いのだ。また大半の台詞が物語の進行に関係がないように思われる。しかし枝葉が重要だ。脚本を刈り込み過ぎると唐戯曲の魅力は半減する。唐戯曲の本質理解に沿って役者が台詞を言うスピード、発声方法、身体の動きなどの演出が的確に為されていなければ唐戯曲は再現できない。
田口 近所の人に聞きました。一緒に暮らしていた人が亡くなったのに、まだ生きているような気がすると、あなたがリンゴを抱いて家を出たのを。
くるみ そうですか。
田口 そして半年、あなたが何かを追うように、僕もあなたを探していました。見つけたのはあの町内。寺山さんがいた路地にあなたも何故か立っていました。僕は本当は寺山さんを追って来たのじゃないんです。あなたを追って来たんです。秘書として入社しやすいように、あのサンダル探偵社、出て来る路地で待ち構え、遂に仕事を頼まれました。しかし、あの目が、いつか、僕も知らない力を発揮して、ジャガーの眼と呼ばれるに至ったのは、夢々、知りはしなかったのです!
くるみ 上司!
田口 部下!
くるみ しんいちさんは?
しんいち 僕は・・・・・・。
くるみ 言って。
しんいち 善福寺川の雲になります!
扉 野郎っ、大同団結しやがったな。
少年 僕は、死んだチロの心臓になる。
くるみ うん。(と少年の頭を抱える)
田口 (扉たちに)分かったか、これで、僕にも所有権のある事が!
くるみ 上司、リンゴは?
田口 ここですっ。
くるみ じゃあ、これから、何処に向かうか、ジャガーの眼の持ち主に決めさせよう!(しんいちに渡す)
(同)
舞台の最後近くで田口の片目は義眼で、彼の角膜がシンジ、次いでしんいちに移植されたことが明らかになる。くるみが「それは三度生き、これからも生きようとする」と言ったように、角膜は三人の男の間を渡り歩いたのだった。ただ田口は「あの目が、いつか、僕も知らない力を発揮して、ジャガーの眼と呼ばれるに至ったのは、夢々、知りはしなかったのです!」と言う。元は田口の角膜だがそれは質的に変化している。「ジャガーの眼」になっている。ではジャガーの眼とは何なのか。
いつの間にかほかの登場人物は消え去って、最後に舞台に残るのは田口、くるみ、少年、そしてしんじである。くるみは物語を強力に牽引するヒロインである。彼女は死んだ恋人シンジの面影を追い求め、それを移植された角膜に見出した。くるみの不可能を可能にしようとする恋心が、田口の角膜を怪しく鋭い光をたたえたジャガーの眼に変えた。
人形のサラマンダを生きた恋人のように連れ歩いていた田口はくるみの力を知っている。だからくるみをサンダル探偵社の社員にして、ジャガーの眼を探すよう依頼させた。少年も同じだ。彼は「僕は、死んだチロの心臓になる」と言う。田口と少年は、この世では不可能なことを可能にしてしまったくるみの同伴者である。ではしんいちはどうなのか。
シンジの角膜を移植されたしんいちには、シンジの記憶が蘇る。くるみと暮らしたアパートのある「善福寺川の雲になります!」と口走る。しかししんいちはシンジになってしまうわけではない。しんいちはしんいちのままだ。だからくるみはシンジと暮らしていた時に大事にしていた幸せのリンゴをしんいちに手渡す。「これから、何処に向かうか、ジャガーの眼の持ち主に決めさせよう!」と言う。しんいちにシンジになれと命じているわけではない。この世の人であり、汚濁にまみれたこの世に生きながら、この世の常識や規範を超える側にゆくかどうか--ジャガーの眼に表象される幸福を選択するかどうかの決断を迫っている。たとえ現世では、「幸せのリンゴ」が反語であったとしても、である。
しんいちを演じた福本雄樹も好演だった。唐組の美男俳優だが、彼には無色透明な雰囲気がある。「しんいち」という役を演じているのではなく、しんいちに染まっている感じがする。それは台詞の言い方にも表れている。恐らくだが、新劇的発声法は学んでいないのではないか。新劇的発声法とは口角を上げて、一語一語くっきりはっきりと発音する発声法である。演劇では基本的だが、唐戯曲では必須ではない。
寺山-唐のアングラ演劇は戦後日本演劇界における前衛だった。新劇的起承転結の物語展開を壊し、母殺しや近親相姦的欲望、不可能なものへの希求などを解き放った。九〇年代頃から始まる小劇場ブームは多かれ少なかれアングラ演劇の影響を受けている。ただ前衛演劇の継続という面では、その後の展開は今やかなり明らかになっている。
小劇場が、テレビドラマや映画の舞台版である新劇とは質的に違う劇を上演しようとするのは当然である(発生順に言えばテレビ・映画が舞台を真似したわけだが)。必然的にアングラ的要素を取り入れることになる。ただアングラを引き継いでさらなる前衛を目指すなら道は限られる。言葉(台詞)を少なくして俳優の肉体表現を重視する方法が代表的な道筋だ。そのため輪唱や沈黙の演劇などが生み出された。九〇年頃から海外上演の機会も飛躍的に増えたので、台詞が多いアングラ演劇よりも、言葉数が少なく俳優の肉体表現を多用した劇の方がグローバル・スタンダードに思えた時期もあった。しかし本当にそうだろうか。
違うと思う。演劇の基本は言葉、台詞だ。能やシェイクスピアの時代から舞台には言葉が溢れていた。これからもそうだろう。しかし言葉が常に意味伝達のための道具として使われるとは限らない。テレビや映画のような映像美を伴わず、俳優が生の肉体で演じる演劇では言葉が肉体化されていなくてはならない。だからムダが、枝葉が重要になる。シェイクスピアも唐戯曲もムダな言葉だらけだ。それを理解している唐組の舞台には、唐演劇で最も重要な言葉の肉体化がある。喋りまくる肉体が熱を帯びている。もちろん一語一語クッキリ発音せず、登場人物たちがたたみかけるように、重なるように早口で台詞をしゃべれば観客は言葉を聞き取りにくい。だがそれでよい。そもそも人間は他者の言葉を全部聞いていない。混沌の中に浮かぶ特定の言葉だけが人の耳目を惹き付ける。
田口 何が欲しいんだ。
扉 何をかっぱらおうとしてんだ?
一~七の戸 何を?
くるみ (葉巻の火をゆっくり靴で踏み消す)盗る物は・・・・・・。
田口 なんてこった。
扉 一杯喰ったんだ、お前、利用されたんだ。
くるみ あの目の光り。
一~七の戸 何!
くるみ ジャガーの眼です。
(同)
田口や扉たちはくるみの言葉を待っている。だから結論をせかすように台詞は早口で、重なり合うように発声されなければならない。「ジャガーの眼です」というくるみの言葉だけが観客の耳に届けばそれでよい。ではなぜ「ジャガーの眼です」という言葉が観客の記憶に残るのか。力強い肯定だからである。くるみは自分が探し求める物はわかっていて、必ずそれを手に入れるのだと宣言している。
あらゆる新しい試みは既存の思想や技法など、先行パラダイムの否定から始まる。何か違うという違和感が新しい試みを生み出す。しかし〝ではない〟という否定型は次代の基礎となる前衛足り得ない。60年代から70年代にかけてはアングラを含む様々な前衛演劇の試みがあった。寺山や唐の演劇が今も上演され続けているのは、彼らが「○○を超える」や「反○○」といった否定型を通過して、〝である〟の肯定に達したからである。その否定をくぐり抜けた肯定を正確に捉えなければ、真に新たな演劇は生まれないだろう。
鶴山裕司
(2019/5/21)
■ 鶴山裕司さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■