【下北沢演劇祭29th参加作品】OM-2公演『OPUS No.10 アノ時のこと、そしてソノ後のこと・・・』
公演日:2019年02月22日~24日
劇場:下北沢 ザ・スズナリ
演出構成:真壁茂夫
出演:佐々木敦/柴崎直子/金原知輝/ポチ/田仲ぽっぽ/辻渚/細谷史奈/高橋あきら/風祭右京/ふくおかかつひこ/坂口奈々/鐸木のすり/高松章子/梨本愛
ん~問題作ですね。作品タイトルにある『OPUS』は、クラッシック音楽でよく使われる「作品番号」のこと。1から9までのOPUSシリーズは見ていないが、OM-2は普通の劇団ではなく実験的パフォーマンスグループだから、毎回違った試みを行ったのだろう。ただ今回の実質的なタイトル『アノ時のこと、そしてソノ後のこと・・・』にはto be continued(次に続く)のニュアンスが感じられる。実際かなり危うい形でかろうじて成立した作品だと思う。
上演前にもらったチラシの束をめくっていたら、制作の金原知輝さんの「ご挨拶」が挟み込まれていた。それによるとOM-2では演出の真壁茂夫さんが基礎になるテキストを書いて作品を作り込んでいたが、OPUSシリーズでは「テーマなどを事前に決めずに、表現者(俳優)が自分でシーンを創り(中略)、発表し、参加メンバー同士でそれについて討論します。(中略)そうするうちにその皆の創るものの中に様々な問題が浮かび上がり、方向性やテーマといったものが徐々に見えてくるのです」とあった。演劇の世界でよく行われるエチュード(即興劇)を作品構成要素にして、繋ぎ合わせるような方法だ。
ただ一定の方向性は必要なわけで、金原さんは今回の『OPUS No.10』は、「その発表の段階で、日本国憲法を使ったシーンを二人が偶然に創りました」「その政治的な言葉をそのまま用いて公演にしました。私達の政治的な言葉にもしかしたら反感を持たれる方もいらっしゃるかと思いますが、それは私達の一つの考え方であると思って頂き、公演を観て頂けたらと思います」と書いておられる。
舞台に政治を持ち込むのは決して珍しくない。戦前から戦後にかけての新劇はストレートに体制批判的な演劇を上演した。閉幕後に脚本家や演出家が舞台に上がって観客をアジることもあった。もっとソフトな体制批判もある。三谷幸喜さんの戯曲『笑いの大学』は映画化されたのでわかりやすい例だろう。第二次世界大戦中の検閲官と脚本家の攻防を描いたブラック・コメディである。検閲官は戯曲を上演中止にしたい。ところが脚本家は粘り、あの手この手で抜け道を提案する。そうこうするうちに検閲官と脚本家の間に奇妙な連帯感が生まれ、二人で検閲を掻い潜った喜劇台本を完成させてしまう。脚本家は浅草の劇団所属だから、権力の後ろ頭をスリッパで叩くような江戸っ子らしい方法である。
もちろんOM-2は実験的パフォーマンスグループなので既存の方法は採っていない。ただ政治主張(思想)はそのままでは生臭い。諸手を挙げて賛成という人もいるし、金原さんが心配なさったように反感を持つ人もいる。政治という生臭モノをどう料理するのかが腕の見せ所になるわけだが、OM-2は観客の何人かが本当に拒絶反応を示してしまうような明確な政治的主張はせず、問題を問題のまま投げ出す方法を採ったと思う。『OPUS No.10』には普通の演劇のようなストーリーはない。閉ざされること、そして解放されることが、洗練された舞台装置とパフォーマーたちの身体によって表現されてゆく。
舞台には天井までギッシリと段ボールが積まれていて、開演すると中央に置かれた椅子に女の子(田仲ぽっぽ)が座る。彼女は本を読む。次々に読む。読むだけで言葉を発しない。右下の段ボールの蓋が開き、膝や太股に痣のある女の子が姿を現す。児童虐待を受けている子だ。彼女も言葉を発しない。声は最初は段ボールから伸びた長い筒から、次いで段ボールから顔を覗かせたパフォーマーたちから発せられる。反安倍政権、憲法第九条を守れ、言論の自由や人間の自由平等の権利、あるいはサラリーマンは人間ではない・・・といった主張が口々に発せられる。どれか一つに主張が絞り込まれることはない。
「うるさいうるさい」と声がしてパフォーマーたちが消え、また椅子の女の子一人に戻る。彼女は緊張感ある緩慢な動きで服を脱ぎ始める。あいかわらず言葉を発しない。言葉がしゃべれないのか、何か言おうとしても言葉にできないのかはわからない。恐らく両方だろう。肉体だけが拠り所ということだ。彼女が上半身裸になると、地響きを伴った爆発音とともに壁が崩れる。『OPUS No.10』最初のクライマックスだ。乱雑に段ボールが転がった舞台でパフォーマーたちが暴れ回る。再び反安倍政権、憲法第九条、言論の自由、人間の自由、平等etc.の叫びが満ちる。
では壁が崩れて政治主張が解放されたのだろうか。自由とは観客=社会に向けてストレートに政治主張をぶつけることなのだろうか。そうではない。その方向に舞台は進まない。政治主張の声が止み、一人の巨体のパフォーマー(佐々木敦)が姿を現す。彼が語るのはトランスジェンダーの苦悩と父親との確執だ。「昨日、母親から父親が亡くなったという電話がありまして・・・」とボソボソと語り始める。やがてゴミ箱に顔を突っ込み舞台を動き回りながら語り続ける。ゴミ箱には小型カメラが設置されていて、パフォーマーの顔が映写機で舞台の壁に大きく映し出される。彼は自由になったはずの舞台で、自らの意志で再び壁に囚われた。椅子に座った女の子や児童虐待を受けた女の子が沈黙を破って語り始めたとも言える。彼の苦悩はパブリックなものではなく肉体に根ざしている。
彼は幼い頃に女装する秘密の遊びを父親に見られた。父はドライブに行こうと息子を誘い、八十キロも離れた場所に息子を置き去りにした。どうやって帰ってきたのかは覚えていない。ただ父は息子を捨てた。捨てようとした。その父が病に倒れた。見舞いにゆくと、細い声で「助けてくれ」と言うのが聞こえた。彼はそれを無視した。病が重くなり再び見舞いに行くと父はもう何も食べられなくなっていた。彼は不憫に思い角砂糖を口に含ませてやった。それを誤嚥して父親は亡くなった。
父に捨てられた息子は父親を恨んでいない。心に傷を抱えているが、父を介護せず結果としてその死を早めたことに呵責を感じている。父は「お前の心は間違っている」と言った。息子は舞台で「わたしの身体は間違っている」と繰り返す。そこに社会的なトランスジェンダーの権利主張はない。心が正しいなら肉体が間違っている。心が間違っているなら肉体が正しい。しかし彼はどちらにも決められない。どちらが正解なのかわからない。昭和二十年八月十五日の玉音放送が響き始める。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の有名なフレーズだけがはっきり聞こえる。彼は「わたしは一歩踏み出せない。子宮に帰りたい」と叫ぶと顎に指を当てて引き金を引き自殺する。発砲音が響き、天井から大量の血糊が男に浴びせかけられ暗転。『OPUS No.10』の二つ目のクライマックスである。
『OPUS No.10』は政治主張に満ちているが、声高な叫びはツイッター上に浮かんでは消えてゆく言説のように扱われていると思う。現政権を倒しても理想の政治が実現するわけではない。また体制内で反体制(体制変化)を叫ぶ者たちは、よりよき社会を目指す愛国者である。外国からの圧迫が強まれば簡単に国粋主義者に変貌する。児童虐待であれトランスジェンダー、言論の自由であれ問題の根は深い。一つの問題に関わるだけで人間の一生は簡単に終わる。また切迫した肉体的動機がなければ特定の問題に生涯関わり続けることはできない。だから『OPUS No.10』の、パブリックな社会主張を常に肉体的苦悩と沈黙に収斂させる方法は正しい。しかしそれで十分なのだろうか。
舞台に明かりが戻ると自殺した男は消え、放射能防護服を着た人が現れる。最後に福島原発問題が加わったわけだ。防護服を脱ぐと女(柴崎直子)だ。彼女は椅子に座ると優美に身体を動かしながら、微かに聞き取れるほどの声で語り始める。「冬が来たら春が来て・・・」といった言葉を発していたように思う。彼女が語るのは希望だ。しかし舞台上のパフォーマーは激しく泣いている。ここでも心と身体、身体と心の二者択一はない。どちらが正しいかわからない。決められない。アンビバレントなまま肉体だけが現前する。
ラストシーンでは、最初の女の子が再びちょこんと椅子に座っている。身じろぎもしない。明らかにパフォーマーではないスタッフ二人が舞台に現れ、散らかった段ボールを事務的に片付け始める。明日になればすべてが元に戻る。また閉塞した壁に囲まれ、政治主張は虚空に消え、苦悩する肉体だけが取り残される。「本日の公演はこれで終了です」というアナウンスが流れ、しばらく間があってから拍手が響いた。
舞台装置やパフォーマーの演技は申し分なかったが、OM-2はやはりパンドラの箱を開けてしまったように思う。〝ではない〟では不十分なのだ。〝である〟、さもなければ〝わからない〟とはっきり示す必要がある。そうでなければ観客は心の底から納得しない。心の底から反発してくれることもない。通常の演劇的ストーリー展開を嫌い肉体表現を重視するにしても、その上位に揺るぎない思想的な核を置く必要がある。ただ『OPUS』はシリーズ公演である。開けてしまったパンドラの箱からOM-2が次に何を生み出すのか楽しみだ。
(2018/02/25)
鶴山裕司
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