熱海にあるMOA美術館の能楽堂で5月13日に春の演能会が行われた。演目は能『半蔀 立花』(宝生流)、そして狂言『真奪』(和泉流)。『半蔀』が小書の演出で上演されると知ってこの公演をどうしても観たいと思った。
小書とは常の演出を替えた特別な演出である。江戸時代に入って能演目の演出は各流派で統一化されるようになったが、「常」の演出を少し変え意外性によって観客を楽しませるための「替え」の演出も行われてきた。その中で制定され伝授されるようになった替えの演出は「小書」と呼ばれ、各流派が上演する演目の一部には小書の演出もある。小書で変わるのは詞の一部、あるいは謡い方、所作、舞、衣装、または作り物(能舞台で使われている道具)の使い方である。場合によっては演目の雰囲気と解釈ががらりと変わることもある。
能『半蔀』には「立花」の小書があり、これはつまり舞台の上に「立花」という種類の生け花を置いて上演を行うのである。
生け花を習っている身として、舞台の上に立花を置くことで能はどう変わるのかが非常に気になった。色々な生け方の中でも立花は大きく場所を取る。とにかく目立つのだ。立花の存在感が強すぎると観客はずっと花を観てシテの所作を観ない可能性だってある。またシテが花よりも目立つと舞台の上に置いてある立花が飾り物にしか見えない可能性も生じる。能舞台のどこに置けば所作の邪魔にならないのだろう。どのような生け方にすれば自然に演目の雰囲気に溶け込むのだろうか。
世阿弥の『風姿花伝』などではシテの魅力が「花」に譬えられ、シテこそが能の公演でもっとも注目を集める存在とされる。また『半蔀』には専用の作り物「半蔀屋」がある。立花も加わると舞台が作り物でいっぱいになってしまうのではなかろうか。そんなふうにあれこれ考えを巡らせて公演の場へ向かった。
当日、能の前に上演された狂言『真奪』も生け花にちなんだ演目だったのは嬉しい発見だった。この狂言では主人が太郎冠者を連れて立花で使うための真(中心となる枝)を山に探しに行く。その途中で立派な真になりそうな枝を持った男が通りかかる。太郎冠者はむりやりその枝を奪いとるのだがもみ合いの中でうっかり男に主人の太刀を取られてしまう。太郎冠者は嬉しそうに真の枝を持って主人のところへ帰るのだが太刀を失ったことに気づき、二人は太刀を奪い返そうとする。男を捕まえて縄で縛ろうとするが、太郎冠者は誤って主人を縛って泥棒扱いにしてしまうという筋である。この狂言は室町時代後期における生け花の流行を見せる作品としてとても貴重だ。
立花の様式は十六世紀半ば頃に定まった。その前身である「たてはな」は祈りをこめて仏前に置くためのやや小ぶりな様式だったのに対し、立花は高さ一メートルを越えることもあり、あらゆる工夫を尽くした大がかりな様式である。作品の中心となる「真」の枝やそのほかの重要な枝すべてを、立花を生ける人が自分で庭や森に探しに行くことは現在でもしばしば行われている。
華道に励んでいると、生けようとしている作品にぴったりの枝が見つかった時の嬉しさはよくわかる。それが他人の物だとなお魅力的に見えてしまうのは今も昔も変わらないだろう。しかし『真奪』の主人と太郎冠者のように強引に奪ったりしてはいけませんね。
滑稽な狂言が観客を明るい心持ちにさせた後で『半蔀』の上演が始まるわけだが、まずその内容をおさらいしておきましょう。『半蔀』の内容はとても単純だ。京都北山の雲林院に住む僧が夏の修行を終え立花供養を行う。その最中に若い女性が現れ一本の白い花を供える。僧は名前を尋ねるが女は五条あたりに住んでいる者だと答え花の後ろに姿を消す。不思議に思った僧が五条を訪ねると、夕顔の花が咲いている古びた家がある。家の半蔀の後ろから光源氏と契りを結んだ夕顔の上の亡霊が現れ、夕顔の花が仲立ちになり光源氏と出会ったエピソードを語って舞を舞う。そして僧に回向を頼んでから夜明けとともに消えてゆく。
僧は花がきっかけで五条を訪ねそこで見つけた夕顔の花から亡霊が何者なのかを知る。亡霊が語る思い出も夕顔の花をめぐるものなので曲全体として「花」のモチーフが強い。僧が夢で見た白い花の精が夕顔の上の亡霊と重なり合うような構成だとも解釈できる。いずれにせよ光源氏が愛した夕顔の上の美しさを花に譬え、二人の愛を回想する能である。
ちなみに『源氏物語』第四帖「夕顔」を題材にした能と言えば『夕顔』、古くは『夕顔上』または『源氏夕顔』という題で知られていた能もある。こちらは夕顔の上が物の怪に取りつかれて亡くなってしまったという、悲劇に終わった光源氏との恋物語に焦点を当てている。
『夕顔』の方が物語としてはドラマチックだが『半蔀』はあえて人と人の縁となる花の美しさと生命力に焦点を当てている。花、つまり夕顔の上の美しさと儚い命に観客の目を向けさせているのだ。作者は内藤藤左衛門という生没年未詳の武士階級の人で「たてはな」ではなく「りっか」という言葉が使われているため、この能はやはり室町時代後期、戦国時代に作られたものだと推測できる。戦が繰り返される不安な日常生活の中で人々は花を見つめ、花を生けることでその儚い美しさをしみじみと味わっていたのである。
さて、いよいよ『半蔀』の上演である。まず立花が運ばれ舞台の真正面に置かれた。柔らかい枝が特徴的なゴヨウマツとアヤメ科の花にミヤコワスレやササユリなど、古典文学にちなんだ花を集めた奥ゆかしい作品だった。池坊の市橋昶先生による立花だ。一本の白い菖蒲の花が開いた状態で高く生けられており、薄暗がりに包まれた観客席の前で輝いていた。その花に観客の視線が集まるのが手に取ように感じられた。これから主人公役を演じるシテにとってはすでにハードルがかなり高くなっていた。
ただ前場(演目の前半)で本物の立花が舞台の上に置かれたおかげで『半蔀』における「花」のモチーフがより明確になっていた。立花が目立ちすぎるか、あるいはただの飾り物に見えてしまうのかという二つの落とし穴があった中で、シテの大坪喜美雄氏が取った行動は常に舞台の正面にある花を意識することだった。白い装束をまとったシテは舞台上に浮かんでいるかのように立花の後ろに立ち僧と言葉を交わす。観客席からはシテの姿が立花の枝の間から見えるので、白い装束と溶け合ってシテと立花が一体化しているように見えた。
「ああ一輪の白い花がシテの姿を借りて舞台の上に浮かんでいる」
そう思った。思った瞬間、深い感動が湧きあがった。このような幻想を体験するために能を観ているのだと痛感した。
前シテとともに立花も舞台からなくなり、後場ではこの演目に欠かせない半蔀屋が舞台の中心へと運ばれた。漢詩にちなんだひょうたんの飾りがつく蔦に覆われたこの竹の作り物は、夕顔の上の物語に直結する通路を開く役割を担っている。夕顔の舞には『源氏物語』で光源氏と夕顔が出会う場面を連想させる所作があり、扇の上に花を載せて手向ける所作が曲全体を通して息づく花のモチーフを綺麗に締めてくれた。
今回の『半蔀』は小書で上演されたので本物の立花が舞台上にあったが、常の上演では花はない。観客は目に見えない立花供養と白い花を想像しなければならないわけだ。生け花に嗜みのある人でなければ所作だけで立花を思い浮かべるのは難しい。花に強く心を揺さぶられた経験もないだろう。この演目で起きる出来事の原動力をうまくつかめないかもしれない。しかしほんの少しのきっかけがあればスルスルと理解できるのではなかろうか。
日本の伝統文化ではその構成要素が繋がっていてお互いを活かしている。たとえば能をとおして『源氏物語』の内容の一部を知ることができ、茶道をとおして日本の自然観や美意識を知ることができる。茶道具には古典文学や能の演目を連想させる模様があったりする。床の間に飾る茶花には華道の「花の出生を生ける」という姿勢が反映されたりする。このような要素の関連性が「意味伝達の網」のようなものを作り上げ伝統を支えている。
小書の演出で上演された『半蔀』はまさにそんな「意味伝達の網」で構成されていた。現実の立花と能のシテが溶け合うような舞台は美しかった。が、そこから何もない空間に花が咲く能の幽玄まではほんの一歩である。『半蔀』の場合、その花は儚い夕顔でありそれは『源氏物語』の光源氏と夕顔の恋の象徴である。日本文化の「道」が交差する公演や作品が刺激的と感じられるのは、それぞれの「道」がお互いを高め合っているからだと小書の演出で上演された『半蔀』を観て思った。
ラモーナ・ツァラヌ
【公演情報】
公演名:熱海座 五月演能会
会場:MOA美術館 能楽堂
日程:2023年5月13日
狂言『真奪』
太郎冠者:野村万蔵
主:野村拳之介
通行人:河野佑紀
能『半蔀 立花』(宝生流)
シテ(女/夕顔):大坪喜美雄
ワキ(雲林院の僧):福王和幸
アイ(所の者):野村万之丞
笛:一噌幸弘
小鼓:飯田清一
大鼓:柿原光博
後見:佐野登
辰巳大二郎
地謡:木谷哲也 朝倉大輔
佐野弘宜 佐野玄宜
高橋憲正 辰巳満次郎
山内崇生 亀井雄二
■コンテンツ関連の本■
■ 金魚屋の評論集 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■