杉本博司作「松林図屏風」(六曲一双)を背景に。Photo Shin Suzuki
パンデミックに伴う緊急事態が長引いている中、2018年に行われた能公演『Noh Climax』をよく思い出していることに気づいた。杉本博司氏の能面コレクションの中から六つの能面が用いられた公演で、氏の呼びかけにシテ方5人と囃子方5人の若手能楽師が応えた。能面に合わせた演目選びは各シテ方に任せられた。上演時間90分の間に連続で五つの能演目の「クライマックス」に当たる盛り上がりの部分が上演されたのだった。
能面は展示して楽しむ美術品とは違って、舞台上で使われてはじめて生きる。数十年に渡って集めてきた貴重な能面を舞台上で登場させるために、杉本氏はこの公演を企画・プロデュースなさった。
『Noh Climax』は「序」、「暗」、「明」と名づけられた三つの部分から構成された。「序」の部分では神事にもっとも近い能『翁』で用いられている面「父尉」を紹介しながら、杉本氏がこの公演の趣旨についてお話しをされた。コレクションに入っている「父尉」は鎌倉時代のもので、神々しい風情を帯びた能面である。
「暗」の部分では杉本氏による「松林図屏風」(2017年)が背景として使われた。能舞台の鏡板の特徴である「松」をモチーフとして保ちつつ、夜の松林の様子を描いているような暗い雰囲気の作品である。勝修羅の能で使われる武士の面「平太」(江戸時代)を用いて能『屋島』、そして地獄で苦しめられている男の面「痩男」(桃山時代)を用いた『善知鳥』の見せ場に、嫉妬で鬼に化けた女の面「般若」の中でももっとも罪の深いものを表している「真蛇」(室町時代初期)を用いて鬼が自分を滅ぼしに来た相手との戦いを描く場面が上演された。
「明」の部分では進藤尚郁による明るくて優雅な雰囲気の「松図屏風」(1735年)を背景に、妖艶さを漂わせる女面「萬媚」(室町時代)を用いた能『羽衣』の見せ場、そして作者不詳の「猩々」の面を使って、酒に酔っぱらった妖精が登場する『猩々』の最後の段が上演された。
進藤尚郁作「松図屏風」(六曲一双)を背景に。Photo Shin Suzuki
能は冥界との交信装置として発展してきた演劇形態だと主張する杉本氏は、人間の冥界との交信能力が衰えている現代の姿を憂えている。「神も仏もいない近代化の果ての現代に至って、日本人の冥界交信能力は絶滅期を迎えつつある。社会そのものが不感症の時代に陥ってしまったのだ。私は今、能のクライマックスに向けて、私のもとへと参集してきた、いにしえの能面達に登場願うことにした。不感症の治療には、あの昔日の喜びを思い出すしかないのだ」とこの公演の意図を解説している。(公演HPより引用)
90分以内に素晴らしい面が用いられている五つの演目が楽しめるということで、好奇心と期待に胸膨らませて公演の日にセルリアンタワー能楽堂に向かった。鑑賞しながら覚えた衝撃と違和感を今も忘れられない。五つの演目からクライマックスだけが抜粋されて上演されるので、息をする暇もないアクションに満ちた90分だった。通常の能演目では最後の速い展開の場面を観るための心の準備が徐々に用意される。しかしそれがすべて省略されていたのである。五回連続でいきなり頂点を目にするわけだが、極めて不自然な流れのように感じてしまった。公演後もしばらくそのショック状態から抜け出せなかった。
この公演をきっかけに能の独特な時間の流れについて考えさせられた。通常の能演目はゆっくりとはじまり、登場人物のやり取りの中で少しずつ展開が速まり、最後の15分間で展開が頂点に至ってすぐに結末を迎える。前半のゆったりとした展開は観客が物語になじんでいくための大切な段階である。場所と時代といった設定の詳細や、登場人物が抱えている背景と感情などが、言葉と所作を通して観客の想像の中で浮かび上がり、その輪郭が徐々に明確になる。展開が速まるに連れて観客の心も出来事の連鎖を追っていくのだ。
これは世阿弥の芸論によく出てくる「序破急」の原理である。始まりがゆるりで少しずつ展開が速まり、そして頂点に至って終わるという典型的な流れのことだ。
雅楽から連歌論まで、中世のあらゆる芸能論に登場する「序破急」は世阿弥にも尊重され、彼による能芸論のほとんどで言及されている。「一切の事に序破急あれば、申楽もこれ同じ。能の風情を以て定むべし」で始まる『風姿花伝第三 問答条々』の中の一日の公演の番組構成論、また「先、序破急に五段あり。序一段、破三段、急一段なり」という『三道』で解説される曲の構成論がその例である。「序破急」の原理は複数の演目からなる一日の公演プログラムから、一つの演目の流れや演目中の段ごと流れにまで、能のあらゆる要素において意識されている。
面白いことに室町時代の能公演の研究によると、当時は一つの演目の上演時間は25分から30分程度の長さだったそうだ。江戸時代末期頃でも現在の上演時間の9割くらいだったらしい。表現の細かいところが段々と重要視されてきた結果、能のテンポが少しずつゆっくりになったのである。現在、一つの演目の上演時間は一時間以上にも及び、鑑賞の際には「序破急」のテンポがはっきりと感じられる。作品の展開と同時に観客の気持ちも盛り上がり、頂点に当たる見せ場を興奮状態で迎えるのは自然な流れだ。中世から今に至るまで、人間社会のペースが速くなっているのに対し、能のテンポだけどんどんゆっくりになっているのが面白い。能の「序破急」が本源的なものであり、いつの時代にも人間精神に必要なものだからだろう。
しかし一方で、能の公演を心から楽しむことができる観客が減っている大きな理由は、まさにこの能独特な時間の流れなのではないかと思う。通常の能公演の前半は極めてテンポの遅い展開で、文字通り「別の時代の時間」を体験することになる。スマホやパソコン、自動車や便利な電気機器がなかった時代の時間の流れである。物理的にも情報処理の観点からも、速さと効率性が重要されている「加速の時代」を生きている私たちにとって、能の独特なテンポを体験するのは苦痛である。というより、現代の人間は加速度以外の時間の流れを生きる能力を失っているのだ。
能演目の「クライマックス」だけを上演した『Noh Climax』は、いかにも忙しい現代人向けの舞台だった。しかし『Noh Climax』が問題提起したのは、本質的には「別の時間の流れ」を体験する能力の損失そのものかもしれないとも思った。五回連続で能演目の「急」の部分だけを観るのは90分間電気ショックを受けると同じようなものである。感情や感覚を含めて人間が正常に機能していたら、電気ショックによる治療を受ける必要はない。しかし目に見えない世界とも無縁になりつつある人間精神が心停止状態になっているならば、電気ショックを使った治療のようなものが必要になってくる。
能の演目から見せ場だけを抜粋して連続で上演するのは極めて不自然だ。だが人類の本源的精神性が衰えている状態に対して危機感を覚えたら、「序破」の欠如を強く意識させるショック療法も有効なのではないかと思った。
『Noh Climax』から3年が経った現在、人間社会はパンデミック以前の時間の流れとは違うテンポを強いられている。常に走り回っている人に無理やりブレーキをかけられ、「時間が止まってしまった」という言葉をこの一年間よく聞いてきた。
クライマックスを、「急」の部分だけを求める現代人の志向はこれからも変わらないだろう。しかしパンデミックで露わになったように、現代的な時間の流れがすべてではない。加速度の時間とは性質の異なる時間の流れがあること、それを生きることができるのも、現代人にとってとても重要なことなのではないかと思う。
わたしたちは能を通して別の時代、あるいは別の次元の時間を体験できる。能の独特なテンポの中に、物事の自然な「序破急」の流れが重視されている時間の流れがある。そこに現代を生きるヒントがあるかもしれない。誰もがクライマックスだけを、結論だけを知りたがる。しかし「序破」のない「急」は説得力がない。また手っ取り早く結論を得ても、それはわたしたちの精神に、生活の深くに決して根付かないのではなかろうか。
ラモーナ ツァラヌ
『Noh Climax』
【公演情報】
企画・監修:杉本博司
演出・囃子作調:亀井広忠
公演日時:2018年1月27日(土)※2回公演
会場:セルリアンタワー能楽堂
主催・企画制作:公益財団法人小田原文化財団
出演
シテ方:大島輝久、坂口貴信、谷本健吾、大島衣恵、鵜澤 光
囃子方:竹市 学 (笛)、吉阪一郎(小鼓)、亀井広忠(大鼓)、大川典良(太鼓)、林雄一郎(太鼓)
■ 杉本博司さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■