岡田利規作・演出の『未練の幽霊と怪物』は、夢幻能の構造を借りた現代演劇作品シリーズである。その中で、東京オリンピックのメイン会場、新国立競技場最初の設計者に選ばれたザハ・ハディードをシテとする『挫波』、それに一九九五年に事故を起こして廃炉になった高速増殖炉「もんじゅ」をテーマにした『敦賀』二作品は、二〇二〇年六月三日から神奈川芸術劇場で上演される予定だった。しかし新型コロナウィルスのパンデミックにより、多くの舞台作品と同様に上演中止になってしまった。しかし未来の上演に向けたリハーサルがリモート環境で行われ、それで作品の一部が「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」と題された演奏付きのリーディング公演の形で二〇二〇年六月二十七日と二十八日にKAATの公式YouTubeチャンネルで配信された。
この配信を観た時、わたし自身、劇場に最後に足を運んでから四ヶ月も経っていた。その間、劇を観ていなかったわけではない。劇場で生の舞台が観られるようになるまでにはしばらくかかるだろうと思い、オンライン配信公演を観ていた。しかし公演記録に過ぎないような配信にはすぐに飽きてしまった。むしろ演劇を配信で観ることに拒否反応に近い感情さえ抱くようになった。そんなわたしが「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」を観ようと思ったのは、「上演の幽霊」という言葉に引っかかったからである。「上演の幽霊」とは「上演」そのものではなく、何か別のものを提示しているのではないかと感じたのだった。実際、「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」はわたしが観てきた「演劇」の定義を破り、その定義を更新するような意欲作だった。
「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」の舞台は、ある室内の窓際に置かれたテーブルである。テーブルに向かって椅子が一脚だけある。テーブルの奥には二〇二〇年六月のページに開いたカレンダーがかかっている。そのページの片隅に、本来ならオリンピックが始まる七月の日付けも小さく見える。灯りがついたデスクランプがテーブルを微かに照らしている。外の街の音がおぼろげに聞こえてくる。窓の外は歩道でたまに人が通り過ぎるが、テーブルの上で行われている上演に気づく人はいない。
出演者はみなそれぞれ別々の場所にいながら自分の役を演じている。役者の姿は、テーブルの上に並んだポストカードくらいの大きさの白いパネルに映し出される。役者たちは画面を通して台詞を交わすのだ。つまりこの配信を観る観客は、役者たちが個々に生で撮っている映像の同時上映を観ているのである。舞台はあるが本当の舞台ではない。役者はいるが生身の役者ではない。まさに影の影を観ている感じで、タイトル通り、「上演の幽霊」を目撃しているようだった。
まず『挫波』の上演が始まった。最初の数分間を観てハッとした。ワキにあたる役の言葉に能の言葉のリズムがある。能オリジナルの言葉ではなく現代口語だが、能作品の冒頭で使われる「次第」と呼ばれる小段のテンポで発声される。詩的で抒情的でありながら、自然に聞こえる言葉だ。「次第」に次いでワキが自己紹介する「名ノリ」、旅の途中でワキが見ている風景をダイナミックに描く「上歌」、そして到着を知らせる「着きゼリフ」、シテが登場する時の歌「一声」、シテとワキがやり取りをする「掛合」や「クリ・サシ・クセ」の段など、能の構造を使った一連の場面が次々に展開していった。
今まで能と現代演劇を融合させようとする作品をいくつか観てきた。「夢幻」をキーワードにした作品、現代演劇で能面を使う作品、あるいは能の「死者の演劇」としての切り口で作られた舞台などがあった。しかしハッキリと〝能らしい雰囲気〟を感受できたのは今回の『挫波』と『敦賀』が初めてだった。まずは能ならではの言葉のリズムがあったからである。
『挫波』と『敦賀』の台詞は日常的に話されている会話とさほど変わらない。しかし能の修辞法(掛詞、縁語、歌枕など)の使用によって、日常語の中に潜むリズムが引き出されていた。現代口語の奥底に隠れていた魔法が一瞬で目の前に蘇ったような驚きを覚えた。こういった能ならではのリズムとパターンに気づくには謡曲をたくさん読むか、謡いを習う必要がある。これは後で知ったことだが、作者の岡田氏は「日本文学全集」に収められた能と狂言の現代語訳を担当なさっている。それがこの現代能作品シリーズ成立のきっかけになったようだ。
歌と音楽も「現代の幽霊が出るような能」を感じさせた。能では八人が地謡を謡うが『挫波』と『敦賀』の歌手は一人である。その歌手が語られるべきファクトをメロディに乗せて物語ってゆく。能では三人か四人で構成される囃子は『挫波』と『敦賀』では一人の奏者。二胡の音を連想させるようなシンセサイザーの音を奏でていた。
能をご覧になった方はおわかりだろうが、能はそもそも音楽劇である。独特の雰囲気が生まれるのは地謡と囃子方の音、それに囃子方の掛け声の効果が大きい。また地謡と囃子方が出す音は単なるBGMではない。音の存在感が強いのはもちろん、舞台で舞うシテは音を合図に動いている。
『挫波』と『敦賀』でも歌と音楽を担当する二人の出演者の存在感は強かった。彼らが作る音の風景が意外な方向に劇のストーリーを導いていった。能の幽霊がさまよう世界へとわたしたちを案内してくれるかのようだった。現代に生きる私たちに馴染みのある音と歌い方なので、越境はごく自然に起こった。それは歌と音楽の先に、今の私たちが聴かなければならないストーリーがあることを示唆しているようで、とても説得力のある方法だった。
役者がワキ、シテ、そしてアイの役を演じるわけだが、見た目は自粛生活で毎日家で過ごしている一般人と少しも変わらない。能面をかけていないし装束も着ていない。ただし能と同じようにシテの動きには振付がある。それがダンスというよりも、異次元の存在の動きを思わせる振付なのだ。歌のテンポが速くなる「クセ」の時は、シテの動きもどんどん激しくなる。そして複数の動作が一つに溶け合ってゆく。それは視覚幻想のような効果を与えていた。『挫波』でも『敦賀』でも現実世界を突破するような身体表現があった。
「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」という作品自体について言えば、映像の演出が非常に重要な役割を果たしていた。複数の出演者が同時に、しかし別々に撮影している映像を同期させ、個々のパネルに映し出しながらまとまりのある作品に仕上げていくプロセスは大きな挑戦であり、刺激的だった。舞台を配信の形で届けなければならないパンデミックの時代だからこそ、細かいところまで映像の演出に時間と神経を傾けることには大きな意味がある。この作品のコンセプトは〝上演の幽霊〟かもしれないが、それでも演劇は先に進むべきなのだ。また実際、現代の技術を使えば演劇表現をずいぶん先に進められることを示した作品だった。
もう一つ「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」と能の共通点を言えば、〝歴史における忘却防止〟を挙げることができる。実際に「何が起きたのか」という「ファクト」は変わらなくても、人々の記憶に残り記録される史実は各時代の社会事情によって微調整される。わかりやすい例で言うと、ある時から歴史の教科書から削除され、また新たに加えられる史実がある。それは人間が歴史(史実)を文字で記録し始めた時代から変わらない。いつの時代でも必ず歴史から洩れてゆく史実(人々の声)がある。
新国立競技場建設にあたり、ザハ・ハディードのデザイン案が一度は採択されながら反故にされたことを、どのくらいの人々が覚えているだろうか。また一九九五年に敦賀の高速増殖炉もんじゅで起きた放射性物質漏れ事故を、いったいどのくらいの人々が記憶しているだろうか。もし記憶深くに刻み込まれていたら、二〇一一年に起きた福島原発事故は驚きではなかったはずだ。最新技術で現代社会が抱えるエネルギー問題を解決しようとした原子力発電所の「夢」は、ずいぶん前から怪物に化けてしまう可能性を有していたのだ。
能ではワキが主人公のシテを導き出す役割を負っている。ワキの忘れかけていた記憶がシテを呼び覚ますのであり、比喩的に言えば『挫波』や『敦賀』では観客がその役割を担っている。観客がおぼろに記憶しているザハ・ハディードやもんじゅの事故が、幽鬼のシテとして舞台上に姿を現すのである。『挫波』や『敦賀』では役者が演じるワキだけでなく、観客もワキとして参加しているのだ。こういった劇の構造と記憶の修復は能では馴染み深いものである。
鎌倉時代初期に成立した『平家物語』は必ずしも歴史的事実に即しているわけではないが、その後の人々に史実より史実らしい説得力を持つ物語として受け入れられた。『平家物語』の中に鵺という怪物の退治の話がある。天皇の御代に、夜な夜な帝を悩ませた鵺を、弓の名手と謳われた頼政が見事に退治して褒美を賜ったというめでたい話である。しかし室町時代に能を大成した世阿弥はこの話を反転させた。能『鵺』で、退治された鵺の視点でストーリーを作ったのだった。
世阿弥が『鵺』で描いたのはそれまで誰も知らず、見向きもしなかった敗北者の内面とその悲しみである。いわば歴史からこぼれ落ちて忘れ去られてゆくファクトである。しかしそれは誰も記憶しないまま忘れ去られていいものなのだろうか? 『鵺』は世阿弥晩年の作品で、足利義満、義持、義教と四代の将軍に仕え、権力を間近で見た役者の視点が反映されていると言われる。世阿弥が描いたのは歴史には残らないが、生きている人間すべてが知っておくべきファクトである。また当時の能楽の観客は高級武士や貴族だったが、彼らは鵺という敗残者に惹きつけられ涙した。勝者である貴顕たちは心の中に敗残者の悲しみを宿していたのである。こういった構造は能独自のものである。
『鵺』よりも古く、世阿弥の父観阿弥が改作したと言われる『松風』は、須磨に流された貴公子(がモデルだと言われる)と海女の姉妹との深い交わりを描いた作品である。海女たちは実在したかしないかも定かでない女性たちだが、観阿弥は彼女らの人間像を肉付けして声を与えた。貴公子行平に愛された姉妹の物語が人々の記憶に残ったのは『松風』という能のおかげである。能は大文字の歴史には残らない敗残者や、名もない人々の記憶の伝達の役割を担っていた。それは芸術というものの役割を端的に表している。
岡田氏の現代能も、わたしたちが忘れがちな人々や歴史のファクトを強く喚起してやまない。また「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」は、舞台で上演されるはずだった演劇の「上演の幽霊」の形式を取ったため、さらに夢幻能に近づいた気配である。そこに岡田氏の現代能の優れた現代性があるだろう。
ただ急いで言い添えておかなければならないのは、「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」は戯曲『挫波』と『敦賀』の全てではないことである。今回配信されたのは能で言えば前場とアイ狂言の部分だけで、結末にあたる「後場」は配信されなかった。つまり『挫波』の幽霊と『敦賀』の怪物が無事に成仏したかどうかは、「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」を見ただけではわからない。能では最後の成仏、つまり恨みつらみなどのドロドロとした人間感情の浄化がとても大事である。それが能のカタルシスなのだ。
もちろん岡田氏の『未練の幽霊と怪物』という戯曲集が出版されているのでそれを読めば結末はわかる。しかし今回の配信劇に即して言えば、結末がないことがとても示唆的だった。それはある意味で、演劇の世界が「途中で中止」されている現状をよく反映しているように思う。優れた作品は、こういった偶然をも呼び込むものではないだろうか。
現在パンデミックが広がり緊急事態が続いていることで、世界中であってはならない人権侵害や、身勝手な個人によるルール違反行為が起こっている。芸術が、演劇が今生きている人間と無縁でないならば、こんな状況でも「公演中止」で終わらせない努力が必要だろう。演劇には、緊急事態で鈍くなりがちなわたしたちの意識や記憶に、演劇ならではの形で引き続き呼びかけてほしい。
ラモーナ ツァラヌ
岡田利規「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」
【公演情報】
演目:『挫波』『敦賀』の一部
配信日:2020年6月27日(土)、28日(日)
作・演出:岡田利規
音楽監督・演奏:内橋和久
出演:森山未來、片桐はいり、栗原類、石橋静河、太田信吾/七尾旅人(謡手)
映像:山田晋平
音響:稲住祐平
美術協力:中山英之
演出助手:石内詠子、制作:小沼知子
宣伝美術:松本弦人
宣伝写真:間部百合 宣伝衣装:藤谷香子
企画製作・主催:KAAT神奈川芸術劇場
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