士郎正宗による漫画『攻殻機動隊』は今まで映画、アニメ、演劇、ゲームなど、様々な芸術とメディアの原作となっており、二〇二〇年についにVR技術を使った能公演の題材にもなった。VR能『攻殻機動隊 The Ghost in the Shell』は、昨年八月二十二日と二十三日に世田谷パブリックシアターで上演され、出演者の一部を変えた形で十一月末に東京芸術劇場プレイハウスにて再演された。二〇二一年の五月から始まる全国ツアー公演も予定されている人気舞台作品だ。筆者が観たのは初演なので、それを中心に論じたいと思う。
奥秀太郎演出のVR能『攻殻機動隊 The Ghost in the Shell』は原作漫画の一巻と二巻を題材にしている。舞台は二十一世紀の日本。脳と機械の接続を可能にした「電脳化技術」によって人間がインターネットの情報の海に直接アクセスできる近未来の世界である。サイバー犯罪に特化した攻性警察組織「公安9課」(通称「攻殻機動隊」)を率いる全身義体の草薙素子は、他人の電脳をハックして人形のように操るテロリストであり、インターネットの中で生まれた知的人工生命体でもある「人形使い」と融合を果たしてから行方不明になった。
能『攻殻機動隊 The Ghost in the Shell』は、素子の仲間であるバトー(ワキ)が彼女を電脳空間の中で探し求めている場面から始まる。バトーは、素子と共に戦った日々を偲んで、戦いの中で彼女の魂が義体を離れ、電脳の海に溶けていった時について思いを巡らす。そこに草薙素子(シテ)の姿が現れる。素子は、彼女が人形使いと融合してから、公安9課の仲間たちが彼女を探し続けていることを知っている。しかし彼女は現在、電脳の海に溶けた魂として、インタネット(電網)に遍満し、ある時は形を持って、ある時は形を持たず、「全てと無とを行き来する」存在となった。一瞬だけ彼女のそばに白い精霊として現れた人形使いに、素子はどうして自分が選ばれたのかを尋ねる。人形使いは「エンなり」とだけ答えて、それから二人の姿は消える。
後場では、素子は電網の海で自分の変種の同位体に巡り合う。二人の素子の会話と舞では、国造りの神話の世界が暗示されている。草薙素子の名前の由来になっている「草薙の剣」の世界だ。素子弐が素子壱に「神になる」誘惑を差し出すと、素子弐が素子壱の影であると判明。「彼の世と此の世のいづれが真か」という議論を交わしたあと、「ただゴーストの。声を聞くのみ」と謡いながら素子はまた一人になる。彼女の幻を背景にバトーが再び現れる。いくら探しても素子の姿が見つからない彼の悲しみだけが残るなか、作品が終わる。
あらすじからうかがえるように、原作が問題提起しているテーマ「人間が何をもって人間であるか」「自分がどうして自分だと言えるのか」そして「認識とは何か」などは、そのままVR能のほうにも活かされているので、『攻殻機動隊』のファンはこの作品にも親しみを感じるだろう。また、サイバー戦やアクションと暴力に満ちた銃撃戦を描きながらも、『攻殻機動隊』は絶妙な切なさが漂うことで知られる作品でもある。脳と脊髄だけが人間で、それ以外は全身サイボーグの素子を四年半が経っても探し求めているバトーの想いこそ、今回の作品が描く一連の出来事のきっかけである。
「ゴースト」(霊)といえば、いかにも能らしい題材で、『攻殻機動隊』を能にするという奥秀太郎監督の発案は必然的とも言える。ただ「『攻殻機動隊』らしい能」に仕上げるのはまた別の話だ。能の世界は、現行の演目、演技の型、謡のあり方、能面、衣装、小道具、特徴的な舞台などからなり、ある意味では完結している世界である。「新作能」として新しい演目を作って上演する際には、能の世界に存在する既存の枠組みを新しい形で使うことになる。例えば能面は種類が限られており、演目によってシテがどの面を使うかも決まっているのだ。言い換えれば、面にはその面が利用できる演目が紐づけられているのである。
また『攻殻機動隊』はSF作品で未来を描いているのに対し、能は過去の回想を軸にしている芸術である。自己や現実の本質を問う現代的テーマの『攻殻機動隊』とは決定的に違う点があるわけで、そこにこの作品を能として上演する際の大きな挑戦があった。それは能という芸術の新たな可能性を探る試みでもある。この作品に関わる中で、能の根本を大切にする能楽師の方々は、とても重要かつ新たな判断を強いられたのである。
具体的に言うと、VR能のシテ(主人公)である草薙素子の面は、この作品のために能面の職人によって新しく作られた面だった。通常の女面に比べて、細い輪郭をした顔で、目がぱっちりしている「かわいい」系の美人面である。この面に合わせて、能で普段使われる鬘の代わりにウィッグを使うことになった。公演パンフレットに掲載されている能楽師の方々のインタビューよると、最初はかなり違和感があったのだが、素子の恰好は能の美意識に叶うような可憐な姿だったので、納得して役を演じることができたそうだ。
この「能の美意識に叶った」という点は重要だ。昨今能という芸術の可能性と未来を真剣に考える能楽師の方が増えているが、ここにそれを可能にする大きなヒントがあるだろう。能の世界を形作っている物理的な枠組みよりも、能が追求している芸術的理想を重視すべきだということである。
一方で能『攻殻機動隊 The Ghost in the Shell』が観客に深い感動を与えていたのは、VR技術の効果が大きかった。素子の魂が揺蕩う電網の世界、また彼女がもう一人の自分に出会う場面でも、観客は最後まで「幻影」を観ているような気分を味わえたはずである。技術の使い方に能にふさわしい引き算の美意識が効いていたのである。電網の世界のあり方を暴露するのではく、その果てしない可能性を暗示することに留めるような優雅な映像演出だった。
能の理想美は「幽玄」である。「幽玄」とは驚きであり、言葉では簡単に表せない深い感動である。夢幻能と呼ばれる作品は「観客に今までだれも観たことがないような美しい光景を見せたい」、つまり「幽玄を体験させたい」という意図から生まれている。世阿弥の作品で言えば、幻想的な月の世界を見せようとする『融』、真夜中に見る満開の桜の美しさを表現する『西行桜』がその代表である。月の世界や桜を描いた絵などは一切使わず、謡いの言葉(詞)と演者の所作だけで、観客に現実以上の美しい光景を実際に目の前に見ているような体験を与えるのが幽玄である。
VR能『攻殻機動隊 The Ghost in the Shell』の幽玄効果は、光学迷彩といったVR技術によって生まれていた。登場人物が交わす詞は各場面で何が起きているかの解釈のヒントを与えてくれるが、漫画『攻殻機動隊』の第二巻の内容を知っていれば、謡いや詞がなくても舞台上の展開を観るだけで何が起きているのかを推測できただろう。
古典的な能の大きな特徴は、役者の所作と台本の詞と謡いだけで、観客の想像力を強く喚起させることにもある。もっと言えば能の伝統が六五〇年も続いているのは台本(謡曲)の優れた文学性のおかげでだ。世阿弥の時代から現在までに、能の演じ方と謡い方が少なからず変わってきたが、ほとんど変わらないのは現行曲の台本なのである。つまり能の台本は詩的作品として完結していて、文学としても楽しめる作品になっている。
VR能『攻殻機動隊 The Ghost in the Shell』の台本は、原作から引き継いでいる哲学的な深みはあるが、詩的な喚起力は乏しかったと思う。公演自体は幽玄の美にかぎりなく近いが、それは台本の詞のおかげではなかった。一人の観客としては記憶に残る美しい世界を見せてくれた公演にじゅうぶん満足できた。しかし「能の未来の可能性」を考えるなら、VR能の台本を人の心に残るような言葉、つまり文学としてずっと楽しめる高いクオリティを持った詩的な台本に仕上げることも大事になってくるだろう。
台本の課題はさておき、今回の作品は芸術と科学技術を横断した共同作業から生まれた大胆な挑戦だった。また『攻殻機動隊』は押井守監督の映画「Ghost in the Shell」として九十年代に海外で紹介されてから、世界中にすでに多くのファンを持っている。それは今後さらに活用していける強みだろう。
能作品が完成するには、観客の積極的な参加が不可欠だと言われている。能を楽しむには典拠となっている原作の世界を知ることが大前提なのだ。古典的な能ではその典拠は『平家物語』だったり『伊勢物語』、『源氏物語』だったりする。世界中で多くの人に愛されている『攻殻機動隊』はすでにSFの古典である。能の美意識と最先端の映像技術を融合させたVR能『攻殻機動隊 The Ghost in the Shell』を海外にも展開すれば、大勢の人に楽しんでもらえるだろう。またそれが新たな能の可能性を広げてゆくと思う。
ラモーナ ツァラヌ
VR能『攻殻機動隊 The Ghost in the Shell』
【公演情報】
上演日程:2020年8月22日、23日
会場:世田谷パブリックシアター
原作:士郎正宗『攻殻機動隊』(講談社)
出演:坂口貴信 川口晃平 谷本健吾 大島輝久
演出:奥秀太郎
脚本:藤咲淳一
映像技術:福地健太郎(明治大学教授)
VR技術:稲見昌彦(東京大学教授)
製作:VR能 攻殻機動隊製作委員会
■ コンテンツ関連の本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■