鶴山裕司さんの連載エセー『続続・言葉と骨董』『第031回 李朝のお膳(後編)』をアップしましたぁ。日本でも江戸から明治の頃までは、一人一つずつのお膳でご飯を食べていましたが、大正時代頃になって家族全員で食卓を囲むためのちゃぶ台が作られました。日本と李朝のお膳には共通点もあるのですが、相違点もかなりあります。日本では規格品のように同じ形のお膳を幾つも作りますが、朝鮮のお膳の種類は豊富です。生産場所や用途によって様々な形があります。また木組みなどの制作方法も異なります。鶴山さんは「李朝の木工品は世界的に見てもレベルが高い」と書いておられますが、非常に丁寧で頑丈な作りなのです。
鶴山さんは浅川巧(たくみ)が昭和三年(1928年)に刊行した『朝鮮の膳』を取り上げて、李朝のお膳について書いておられます。浅川巧は兄・伯教(のりたか)と共に柳宗悦(むねよし)の民芸運動の初期メンバーです。ただ長生きした宗悦が、現世の習いとして様々な妥協や方針修正をしなければならなかったのに対し、巧は40歳で夭折したのでその思想がピュアなまま保たれたといふ面があります。また巧が素晴らしい人間性を持っていたのも確かです。日帝時代であったにも関わらず、葬儀には大勢の朝鮮人が詰めかけました。鶴山さんは「浅川兄弟が注目される理由には日本人にとって後ろ暗い日帝時代において、彼らの存在が一縷の救いになっているからでもある」と書いておられます。
ただ今も昔も朝鮮の骨董と言えば陶磁器が中心であり、昭和三年にお膳について書いた巧の審美眼は尋常ではない。またお膳は人間の生活を根源的なところで支える道具でもあります。鶴山さんは「ご飯というのは実に奥深いテーマである。一人泣きながらご飯を食べる日もあるし、家族と笑いながら食卓を囲むこともある。人は幸せだった時も悲しかった時も、それをご飯と一緒に思い出すことが多いものである。そういう時に、昔からずっといましたという顔でお膳がデンとあると、なんとなく嬉しい。・・・長く使われたお膳は「重き任務をもつ」と言うか、持つようになるのである。僕は今日も李朝のお膳を使ってご飯を食べている」と書いておられます。こういうセンチメンタルなところがあるから、鶴山さんはちゃんとした荒木経惟論も書けるんでしょうね(爆)。
■ 鶴山裕司 連載エセー『続続・言葉と骨董』『第031回 李朝のお膳(後編)』 ■