谷輪洋一さんの文芸誌時評『No.007 yomyom 2014年 12月号』をアップしましたぁ。池田さんディスクレシア(失読症、難読症)という病いについて書いておられます。物書きがディスクレシアになったら大変ですが、池田さんはまあはっきり言うと、文芸誌はうんざりするな~といふ意味のことを書いておられまふ(爆)。
池田さんは、「字を読むことに障害を生じるのは、その人なりの合理的な脳の領域の使い方からくる、ある結果なのだろう。・・・文字が意味を成さない、ばらばらのインクの跡にしか見えないとすれば、まさしくそうであるという現実もまた、そこに出現している。・・・その目次は、そこで形を成しているのかもしれない社会的なコードを超えた普遍的なインクの染みに見えた。その目眩の瞬間は言うまでもなく、文芸誌の拠って立つ社会的コードへの異議申し立てになり得る。ただ、そうする気が起きるかどうかもまた、別の問題だ」と書いておられます。
む~なんとなくおっしゃりたいことはわかりますな。文芸誌にそうそう秀作や傑作が掲載されないのは常識的なことです。ただ石川などが感じる今の文学状況においては、小説の虚構性自体がけっこうヤバイことになっていると思ふのです。普通の虚構、つまりありきたりな小説的フィクションに読者は飽き飽きし始めているやうな感じです。手を変え品を変え、読者をびっくりさせるような面白い小説が量産されているわけですが、それがかえって小説という文学ジャンルを追い詰めている気配がある。
ただ文学界全体にも、作家にもあまり危機感は見られないですね。文学業界はとにかく既存のシステムを運用することで活路を見出そうとしているやうです。作家さんは既存作家ならまず現状維持、作家の卵さんたちはなんとかデビューして作家と呼ばれるようになれば、もう不満は申しません、文壇作家として生きて行きますといふ感じでふ(爆)。
不肖・石川としては珍しく意気軒昂なことを言えば、それでは〝志が低い〟んだな。自分のことにしか興味がないのは人間なら当たり前です。しかし「私」の中に「公」が、社会の変動を含めた世界観が生じなければ、文学にはならないと思います。
■ 谷輪洋一 文芸誌時評『No.007 yomyom 2014年 12月号』 ■