yomyomという雑誌タイトルからというわけでないが、ふと、ディスクレシア(失読症、難読症)という病いについて考えた。読みあぐねて、自分はもしかしてそうなのではないか、と思ったということだ。つまり、必ずしも雑誌のせいではなく。成人してから気づく人もいるということで、あり得なくはない。ただ、ものによって症状が出たり、出なかったりするものなのか。
病いを疑うぐらいなのだから、yomyomがどうこうというわけではなくて、このところなぜか文芸誌全般で難読を感じる。ちなみに文学金魚は大丈夫なのだが、これはまた別だろう。別、ということは自分で区別をしているのだから、病いではない、ということだろうか。
しかしディスクレシアとは、脳での文字情報の処理の仕方が他の人と違うことが原因と聞く。だとすれば区別をしているのは脳であって自分ではなく、脳も身体の一部なので、思うようにならなければ、すなわち病いだ。で、誰の思い通りにしようと思ってるのかを問うと、何しろ脳の話だから厄介なことだ。
人間が文字を読みはじめてから、まだ5000年ぐらいなので、脳の中で文字情報処理に特化された領域は、まだ作られていない。すなわち、あちこちの領域を借りて、パッチしながら処理しているのだから、その上手い下手が出るのは当たり前。何をどうしてよいやらわからず、ぼーっとしているのもいそうだ。そして、こういう話の常で、そうだからといって能力そのものが低いわけではない、とも
知性というのは、文字情報を処理するの能力のことをいう、といった認識がかつてはまかり通っていた。そういう逆転したような物言いが流行していた頃でもあった。一方で、文字情報の処理とは別の能力、それゆえにいっそう研ぎ澄まされた知性と呼ぶべきものがあることを、私たちは経験的に知っている。スポーツ選手しかり、画家や職人しかり。脳の働き方に対するイメージと結びつけて、それをパターン認識などとも呼ぶ。
字を読むことに障害を生じるのは、その人なりの合理的な脳の領域の使い方からくる、ある結果なのだろう。私たちがそれに似た状況に陥るときもまた、なんらかの合理性があるのかもしれない。文字が意味を成さない、ばらばらのインクの跡にしか見えないとすれば、まさしくそうであるという現実もまた、そこに出現している。
yomyom がどうこうではなく、その目次は、そこで形を成しているのかもしれない社会的なコードを超えた普遍的なインクの染みに見えた。その目眩の瞬間は言うまでもなく、文芸誌の拠って立つ社会的コードへの異議申し立てになり得る。ただ、そうする気が起きるかどうかもまた、別の問題だ。
パターン認識能力だけを働かせても、レビューの端緒らしきものはつかめる。yomyom 今号の朝井リョウのエッセイは、文学金魚で三浦俊彦が連載している『偏態パズル』の内容と変わらない。いや、同じである。ただ、エッセイとして切り取られ、執着も執念もないだけだが、その点についてレビューらしいコードで論じてみせる気になるかどうかもまた、別のことだ。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■