池田浩さんの文芸誌時評『No.015 小説すばる2014年11月号』をアップしましたぁ。特集「やっぱり、ミステリが好き!」を取り上げて、小説について原理的な考察をなさっています。ハリイ・ケメルマンに『九マイルは遠すぎる』といふ、今や推理小説の古典となった作品があります。「「安楽椅子探偵小説」と呼ばれるものがある。・・・通りすがりに、たまたま耳にした「九マイルは遠すぎる」という一言。見知らぬ者が発したそのたった一言について、文字通り座したままで推理をめぐらせ、ついに事件の真相にたどり着いてしまう」作品です。
池田さんは、「最近まで私たちは、そのようなロジックを推理小説特有のものとして、いわゆる小説、文学とは別のものであると分類してきた。しかし、果たしてそうなのか」と疑問を呈しておられます。『九マイルは遠すぎる』が「ロジックの何たるかを示すものだと捉えるなら、文学とは別物ということにはなる。が、そこにある驚きには、物事への距離感が生み出す視点、距離があることによって真実が思わぬ形で姿を現わすことが含まれているように思う。・・・距離がなくなることで客観的な事実を見失うとか、距離のない密着の中で人格が溶解してゆくとか、そういった光景もまた想定されるわけで、それこそが純文学と呼ばれるものに近い。私たちの日常は、その二つの極端な状態の、凡庸な中間地点にぶら下がっているので、どちらを示されても驚く」からです。
その通りだと不肖・石川も思います。小説が人間を主人公とする限り、論理で謎を解決することも、主観で簡単な謎の本体を見失うことも、共にミステリアスな作品になり得るわけです。ただどちらかの立場をスタティックなものとして設定してしまうと、「ミステリ小説」や「純文学」といった〝制度〟が生じてしまふ。しかし文学は本来、制度を壊す、あるいは制度にとらわれない何事かを描くものです。池田さんが「ミステリ小説のタイプとは、何を謎と感じるか、という人間の分類そのものである。それは何を神秘と捉えるか、ということであり、つまりは何に究極的な価値を見出すか、ということになる。文学とは畢竟、それが確信化し、思想化したものであり、借り物の謎を描く技術ではないはずなのだ」と書いておられる通りでありますぅ。
■ 池田浩 文芸誌時評『No.015 小説すばる2014年11月号』 ■