水野翼さんの文芸誌時評『No.006 小説TRIPPER 2014年秋号』をアップしましたぁ。夢枕獏さんのインタビュー『「キマイラ」の世界』が掲載されています。夢枕先生、2013年4月にニコ動で『キマイラ』執筆を生中継されたそうです。まぢすごいなぁ。水野さんは「繰り返して言われるのは「自分を追いつめたかった」、「自分を追いつめなくてはだめだと思った」ということで・・・ともあれ、この人工的な切羽詰まる状況を経て、夢枕獏先生は無事にキマイラの世界に入り込むことができ、目標とする執筆速度を達成するまで調子を上げることができた」と書いておられます。
文学金魚では純文学、大衆文学という用語を意識的に使っております。それは物事をできるだけ整理して考えるための方便であり、優劣を示しているわけではありません。純文学、大衆文学という両極を設定した方が〝未来の文学像〟を把握しやすくなるのではないかと思っているわけですね。
大衆文学作家が、読者を楽しませることに大きな労力を割いているのは確かです。しかし優れた大衆文学作家は夢枕獏さんのように、読者を楽しませながら、作家としてどうしても表現したい核(純文学的な核)に近づいてゆく。純文学作家もまた、そういう作家は少ないですが、文学の核心を描くんだという意志を保持しながら、より多くの読者にアピールできる大衆文学的主題や方法を取り入れてゆく必要があると思います。文学金魚は純文学、大衆文学といふ区分を立てていますが、要するにいずれその垣根は崩れるだろう、崩れた方が良いだらうと考えているわけでありまふ(爆)。
作家がある確信(思想)を肉体的な強さで保持しているのなら、本質的に純文学と大衆文学の区分など生じないはずなのです。問題はそれが現実社会(文壇)における制度になった時に生じます。芥川賞系の純文学作家が大衆文学を書いても、はっきり言って並み以下の大衆文学しか出来上がりません。大衆文学作家が純文学(制度的な)を書いても同じことです。問題は現実制度などにはないわけで、現実(文壇)制度にこだわればこだわるほど、その作家の思想の弱さが浮き彫りになってしまう。しかしたいていの作家は、現実制度にしがみつく以外に作家としてのアイデンティティを見出せないでいます。社会的に小説家や詩人と呼ばれることに、異様なほどこだわる作家は掃いて捨てるほどいます。しかし本当に表現したいことがなければ、文学創作には端から関わらない方が良いのです。
夢枕獏さんの「自分を追いつめたかった」、「自分を追いつめなくてはだめだと思った」という言葉は真摯に受け取った方が良いと思います。流行作家ですらこの追い詰められ方なのです。のほほんとしている作家が世の中に認められるはずがない。どんなに有名な作家でも板子一枚下は地獄です。不肖・石川は、肉体的信念を持った作家が大好きですが、それは作家としての信念と矜持に留まります。社会に出て行くためにはありとあらゆる努力をしなければなりません。社会が力関係で動いているのは厳然たる事実。それを変えることは何人にもできません。作家が社会的な力を持った時に初めて、その作家の文学的信念が多くの読者に届くのも確かなことでありまふ。
■ 水野翼 文芸誌時評 『No.006 小説TRIPPER 2014年秋号』 ■