夢枕獏のライフワークである「キマイラ」の新刊について、インタビューが掲載されている。夢枕獏のインタビューと言えば、この文学金魚のものが(身びいき抜きに)素晴らしかったと思うが、こちらも大変興味深かった。とりわけ、その文学金魚のフロント・インタビューを読んだ向きには、なるほどと頷かれるところがあったのではないか。
2013年4月の第一回の執筆光景を、ニコ動で生中継したというのには恐れ入った。執筆「光景」というのは誤解を招くので、執筆そのものである。それも大勢の見物人がすぐ手に届くところにいて、大声で歌っているというのだ。なんというシュールな、それ自体が不条理劇みたいな状況ではないか。
なんでまた、そんなことを承知されたかは、まあ、繰り返して言われるのは「自分を追いつめたかった」、「自分を追いつめなくてはだめだと思った」ということで、うーん、流行作家という存在、そのあり様そのものがスリリングな小説と化している。使命感とサービス精神、ここに極まれり。しかし流行作家、急に体調を崩すことも多いと聞くし、なおかつそんなことをしていたら、体調が悪いことに気づきすらしないかも。大変心配である。
ともあれ、この人工的な切羽詰まる状況を経て、夢枕獏先生は無事にキマイラの世界に入り込むことができ、目標とする執筆速度を達成するまで調子を上げることができた、とのことである。さすがです。邪魔が入った方が追いつめられる、なおかつそんな自分の仕事ぶりを皆が見ている。そこでどんどん作品世界に没入していく。現実に背を向けることが乗り越えることで、勝つことでもある。芸能人とは違う、作家の本性だろう。
そしてこの追いつめられ方には、見覚えがあると思われるだろう。筒井康隆の小説の主人公みたいだ、と。ということは、これはやはり人気作家であった筒井康隆の姿そのものであったろうし、筒井康隆主宰の同人誌からデビューした夢枕獏が同じ追いつめられ方を選ぶということには縁というか、因果を感じる。
結局のところしかし、その追いつめられ方は社会からの追いつめられ方でありながら、いかに別世界に入り込んでゆくかという方法論であるわけだから、外圧としての他者、他力を利用しているということだ。それはたとえば、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、雷の電力を利用して未来に帰ってくる、というのも想像されて、精神的てあると同時に、あり方としては SF 的に現実離れもしている。
つまりそれが内面の、精神世界に拠っているという点では純文学と少しも変わらないのだが、むしろ極端であるためにやや戯画的でパロディ的でもあり、それをもって SF 的と呼ばれるものに接近して見える。が、作者そのものの実感としてそれを演じてしまうのだから、いわゆる純文学的なるものよりも信用できるのだ。
ただ、ニコ動の中継が始まる前に、第一回の導入として決まっていた岩村賢治(夢枕獏が刊行した詩集の著者名)による詩は書いてあったということだ。物理的な追いつめられ方によってのみ、言葉は生み出されるべきものではない。詩は夢枕獏にとって、そのデビューを規定した特別なものだ。特別なものではあるが、いつも忙しい人気作家の夢枕獏は、おそらく多くの自称詩人よりもずっと詩が何物なのかを知悉している。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■