鶴山裕司さんのエセー『安井浩司論』『No.018 『安井浩司墨書展』関連コンテンツ終了』をアップしましたぁ。12月15日にアップした書評『No.017 なぜ俳句なのか、俳句とはなにか-『安井浩司俳句評林全集』(後篇)』をもって、2012年10月から始めた『安井浩司「俳句と書」展』から続いた安井浩司関連コンテンツの掲載が終了しましたので、企画人の鶴山裕司さんに終了の弁を書いていただきました。最も長く続いたコンテンツは鶴山、岡野隆、山本俊則さんの連載(各20回)で、この60本だけでも軽く600枚を超える分量です。ある地点に達するまで思考を継続する文学金魚らしひ特集になりました。
鶴山さんは『《俳句形式とは何か》と問うことを、俳人はつねに自己存在性の根源的ドラマとして負いこんで』いるが、それは『今日の文芸が、内容〈人間〉は形式によって裏切られ、総じて近代の価値観が逆立ちし、自己喪失以上に文学の喪失を痛感させるという、様々の意味での危機を迎えている』ということであり、『いち早く俳人はそのことに直面していた』という安井さんの批評を引用した上で、安井文学と現代文学の関係を論じておられます。
『小説や自由詩が戦後文学の終焉を受け入れざるを得なくなったのは、おおむね二〇〇〇年紀に近づいたあたりからである。しかし安井氏は一九八〇年代にすでに、「いち早く俳人はそのこと(現代文学の危機)に直面していた」と書いている。「《俳句形式とは何か》と問うことを、俳人はつねに自己存在性の根源的ドラマとして負いこんで」いるという安井氏の言葉は、小説や自由詩にも当てはめることができる。戦後文学までは残存していた様々な文学神話が消滅してしまった以上、文学者たちは各文学ジャンルのアイデンティティを問い直さざるを得なくなっているのである』と鶴山さんは論じておられます。このあたりがジャンルの垣根を越えて安井文学が検討に値する理由です。もちろん安井文学を読解することは、その性質から言って俳句文学の的確な理解にもつながります。
文学金魚では今後も安井文学も含め俳人・俳句論を掲載してゆきます。ただ俳壇は一歩足を踏み入れると結社・同人誌乱立で、石を投げるとストレートに物を言いにくい偉い先生に、絶対確実に当たってしまふといふ面倒くさい世界ですので(爆)、文学金魚では相変わらず〝文学として論じるに足るかどうか〟だけを指標に俳人・俳句論を掲載したひと思います。合評・選句・添削・俳句入門などは俳壇内での重要な仕事だと思いますが、文学として評価される仕事はあくまで俳人の作品だといふことです。
■ 鶴山裕司 エセー 『安井浩司論』『No.018 『安井浩司墨書展』関連コンテンツ終了』 ■