金魚屋では二〇一二年十月に『安井浩司「俳句と書」展』を開催し、公式図録兼書籍刊行と同時に文学金魚で安井浩司論を掲載してきた。というより文学金魚にコーナーを作ってもらい、僕の気が済むまで安井論を掲載させていただいたのである。特に岡野隆さんには『唐門会所蔵作品』を、山本俊則さんには『安井浩司墨書句漫読』を限界を超えて書いていただき、僕の『安井浩司参加初期同人誌を読む』と合わせて全六十コンテンツを掲載した。ただ最近公開した安井氏最新句集『宇宙開』論と『安井浩司俳句評林全集』書評で、安井文学に関する基礎的批評パラダイムを構築できたのではという手応えを感じている。そこでこれをもって『安井浩司「俳句と書」展』から続いた安井浩司関連コンテンツの掲載をひとまず終了したいと思う。
安井浩司論を書き始めてから、ある納得を得られるまで二年以上もかかってしまったわけだが、決して長すぎる時間ではなかったと思う。優れた作家の文学について考え始め、気がつくと数年経っていたというのはよくある話である。しかし安井文学の読解に時間がかかったのは、単に安井文学が優れているからではないと思う。安井氏は同時代人である。その歩みは僕と重なっており、彼が示唆する未来は僕のものでもある。当たり前だが過去の文学動向を分析するよりも、現在進行形の文学を正確に理解する方が遙かに難しい。そこから未来のヴィジョンを読み取るのはさらに困難だ。安井文学を読解することは僕の未来の文学ヴィジョンを試すことでもあった。安井氏は僕らよりも先に歩を進めているが、そのさらに先を歩むことになるのは僕らなのである。
《俳句形式とは何か》と問うことを、俳人はつねに自己存在性の根源的ドラマとして負いこんでおり、そのまま文学の主題化してしまうことなど、他ジャンルの人達にとってはとても理解できないだろう。しかし、今日の文芸が、内容〈人間〉は形式によって裏切られ、総じて近代の価値観が逆立ちし、自己喪失以上に文学の喪失を痛感させるという、様々の意味での危機を迎えているとするならば、いち早く俳人はそのことに直面していたのではないか、と改めて思わざるをえないのである。
(安井浩司「俳句と近代 その問い返される懸崖」)
「俳句と近代」は昭和六十一年(一九八六年)に書かれた評論である。当時僕は二十五歳で、安井氏のように明晰な形ではないにせよ、同じような予感を抱いていた。僕は自由詩の世界で仕事をしていて、当時はまだ戦後詩や現代詩が〝現役〟だった。しかしこのままではごく近い将来に、それらは間違いなく古色蒼然とした過去の文学潮流になるだろうと考えていた。もし戦後詩や現代詩の相対化――つまりそれら文学潮流を超克して新たなヴィジョンを提示できなければ、自由詩はどうしようもなくグタグタの文学ジャンルに堕するだろうとも思った。確信的思想だけが自由詩という文学ジャンルの拠り所だからである。この悪い予感は現実になった。いや、現実は予感などより遙かに酷いものだった。危機は詩の世界だけでなく、文学界全体を覆ってしまったのである。
安井氏が三十年近く前に指摘したように、現代文学の世界では「内容〈人間〉は形式によって裏切られ、総じて近代の価値観が逆立ち」している。もう誰も文学者の特権的思想や感性を信じていないのである。戦後文学にまでは残存していた文学者の特権、すなわち「近代の価値観」は霧散したのだ。思想的にも感性的にもなんら常人と変わらない文学者が書く作品は、工夫を凝らした技巧によって、せいぜい読者にいっときの楽しみを与えることができるだけである。作品の「内容・人間」が文学を成り立たせるのではなく、文学と名付けられているから文学作品なのだという、形式化による衰弱が起こっている。
また安井氏が予感したように、文学者の「自己喪失」(アイデンティティ崩壊)は「自己喪失以上に文学の喪失を痛感させるという、様々の意味での危機」をもたらしている。「純文学」が文学の中の最も純なる部分、つまり文学の核心であるとすれば、現在純文学と呼ばれる文学ジャンルは空洞化している。小説ばかりではない、現代短歌や俳句、自由詩が少数であれ読者に支持されてきたのは、それが純文学であり文学の核心を表現しているという共通理解があったからである。しかし文学の核心など、もうどこにも見当たらない。たまさかの偶然と僥倖によって等身大の隣人の作品が評価され、小説家や詩人と呼ばれているだけではないかと多くの人が感じ始めている。既存作家への尊敬が失われ、本が売れず、だが作家志望の人間ばかりが増加している理由がここにある。
ただ安井氏は俳人である。安井氏は「《俳句形式とは何か》と問うことを、俳人はつねに自己存在性の根源的ドラマとして負いこんでおり、そのまま文学の主題化してしまうことなど、他ジャンルの人達にとってはとても理解できないだろう」とも書いている。僕も当初、なるほどそれは俳人と呼ばれる人たち固有の特徴だろうと考えていた。しかし本当にそうだろうか。平明な言葉で言うと、唯一無二の自我意識によって独自の作品を生み出す天才的作家像という幻想が崩れ去った廃墟のような現代文学界で、目立つのは文学ジャンルと呼ばれる建造物ばかりである。作家たちは館の住人かもしれないが、主の資格を持った作家は探しても見当たらない。建物(文学ジャンル)だけが相変わらず堅牢な姿を見せている。
文学の世界では、詩の世界で起こったことがやがて小説の世界でも起こるようになる。詩が文学における、最もミニマルかつ根源的な形態(ジャンル)だからである。ここでは詳述しないが、僕は日本文学における最もミニマルな形態は、短歌ではなく俳句だと考えている。俳句文学で起こっている事柄は、いずれ必ず自由詩の世界でも起こり、やがて小説ジャンルにも波及するのである。
僕は詩人・吉岡実の『死児という絵』収録のエセーで現代俳句に開眼した一人だ。吉岡は高柳重信と懇意で、重信は自由詩に近い多行俳句の実践者だったから、長い間、重信の前衛俳句(多行俳句)運動は戦後詩や現代詩から大きな影響を受けているのだと考えてきた。しかしそれは正確ではなかったようだ。もちろん重信は戦後詩・現代詩から多くを吸収した。だが前衛俳句運動の根はもっと以前にある。考えてみれば重信が富澤赤黄男(明治三十五年[一九〇二年]~昭和三十七年[六二年])を師と仰ぎ、赤黄男俳句を前衛俳句の基礎としたことを考えれば当然のことであった。
詳細な議論は省くが、前衛俳句の出発点は昭和初年代の新興俳句運動にある。新興俳句運動は高浜虚子主宰の俳誌「ホトトギス」からの、水原秋櫻子、山口誓子、高野素十、阿波野青畝(いわゆる4S)の脱退に始まると言われる。しかしこの運動を虚子「ホトトギス」と4Sの俳誌「馬酔木」の対立だと捉えると、本質を見誤るだろう。「馬酔木」には石田波郷や加藤楸邨、高屋窓秋らも加わっていた。またいわゆる「京大俳句」弾圧事件で検挙された平畑静塔、西東三鬼、秋元不死男、渡辺白泉らも新興俳句運動の作家たちだった。有季定型遵守という点では一致していた虚子と4Sの対立は今日ではわかりにくいが、無季無韻俳句を許容した「京大俳句」派の作品は、いわゆる前衛俳句まであと一歩だった。日野草城の俳誌「旗艦」に参加した富澤赤黄男を含め、彼らが戦後俳句を担ったのは言うまでもない。
新興俳句運動は総体的に捉えなければならない。昭和初年代は近代俳句から現代俳句への移行期だったのである。正岡子規は、自分の俳句は蕪村俳句を一歩進めただけだと書いたが、比喩的に言えばこの時期、江戸俳句を基盤とした子規の近代俳句(写生俳句)の可能性が臨界に達したのである。しかし戦争によって新興俳句運動は中断されてしまった。優れたジャーナリストでもあった重信の、戦後の一九五〇年代から始まる前衛俳句運動のセンセーショナルな衝撃によって、新興俳句運動は〝近代の文学動向〟として捉えられがちである。しかし重信の前衛俳句運動によって議論が深まる俳句文学の問題点は、新興俳句運動時代にほぼ出揃っている。前衛俳句への三鬼や白泉、窓秋らの影響は決して無視できない。
現代に地続きの問題なので様々な見解があるだろうが、俳句文学における近代から現代文学への移行は、自由詩の世界よりも二十年ほど早く起こっていたのではないかと思う。現代文学からポスト・モダン文学(同時代文学)への移行も同様である。高柳重信、加藤郁乎以降、新たな表現形式を探究するという意味での前衛俳句がほとんど不可能なように、新奇な表現を軸に戦後詩・現代詩(戦後詩人の方が年上だが、戦後詩と現代詩の発生はほぼ同時である)以降の自由詩を生み出してゆくことはできないだろう。日本文学において自由詩は前衛でなければならないと思うが、前衛の質を変えなければそれを維持できない。
小説や自由詩が戦後文学の終焉を受け入れざるを得なくなったのは、おおむね二〇〇〇年紀に近づいたあたりからである。しかし安井氏は一九八〇年代にすでに、「いち早く俳人はそのこと(現代文学の危機)に直面していた」と書いている。「《俳句形式とは何か》と問うことを、俳人はつねに自己存在性の根源的ドラマとして負いこんで」いるという安井氏の言葉は、小説や自由詩にも当てはめることができる。戦後文学までは残存していた様々な文学神話が消滅してしまった以上、文学者たちは各文学ジャンルのアイデンティティを問い直さざるを得なくなっているのである。
文学ジャンルのアイデンティティが霧散してしまったときに、起こり得る出来事は二つくらいである。一つは戦後文学よりもさらに古い古い文学幻想にしがみつき、なんとしても今ある既存文学の枠組みを死守しようとする動きである。このような動きは愚鈍を通り越して愚劣ですらある。未来の文学に何一つ寄与しない後衛だ。もう一つはいずれ古びてしまう技法や観念としてではなく、多面的な世界把握の反映として文学ジャンルを捉え、それを原理的に再定義することである。一歩先に歩みを進めている安井文学はその姿を示唆している。ただとりあえずのものであれ、安井浩司論や俳句論によってのみその結論を導き出せるわけではない。各文学ジャンルの特性を把握する、総合文学的な視座が必要である。
安井浩司関連コンテンツの掲載はひとまず終了だが、機会があれば安井さんへのインタビューなどは今後も掲載してゆきたい。作家は書くのが仕事であり、優れた作家になればなるほど、書けば仕事は終わりと考えることが多いものである。ただ同時代よりも先に進んでいる作家の思想を、即座に、正確に受け取るのは難しい。安井さんの場合がまさにそうである。過去数回安井さんにインタビューさせていただいたことで、僕の安井文学の理解は大きく進んだ。インタビューは作家本人ではなく、受容者(読者)のために必要なのである。安井さんにとっては喋るのは仕事の内に入らないだろうが、安井さんにはわかりきった話(思想)でも、それを平明に引き出すのも同時代人の仕事だろうと思う。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■