鶴山裕司さんの『BOOKレビュー・詩書』『No.017 なぜ俳句なのか、俳句とはなにか-『安井浩司俳句評林全集』(後篇)』をアップしましたぁ。安井さんの『俳句評林全集』論といふか、安井さんの評論集に沿った俳句文学論後篇です。二人の原理論的思考者が火花を散らすと、俳句を巡る議論がグッと一歩前進したやうな気がしますです、はい。
安井さんは前衛俳句作家として知られますが、高柳重信系の前衛俳句作家ではないと鶴山さんは書いておられます。『重信の多行俳句は俳句文学の動的ダイナミズムを試す作品だという意味で「‘俳句」と捉えられる。しかし(加藤)郁乎は非・俳句「作品」まで進み、それを「俳句」化しようとした。・・・ほぼ完全な「(前衛俳句)念願の虚構完体」である「’’俳句」作品を作り出したのである。だがこの先はない。・・・作品は俳句定型に揺り戻るほかないのだ』と論じておられます。前衛俳句の試みは俳句文学の〝解体〟まで進み、いわゆる伝統俳句に近い審級に立ち戻らざるを得ない。しかし一度解体を目の当たりにした俳句は従来の意味での伝統俳句ではあり得ないわけです。
鶴山さんは、『伝統俳句もまた本質的に「一回性」の芸術である。アプリオリに俳句定型(形式)が存在するわけではなく、一回ごとに俳句の肉体を垣間見せるような俳句定型への昇華が行われなければならない。悟るなど論外で、俗にまみれ、迷い、その都度俳句定型を発見する必要がある。そのようにして定型(必ずしも五七五に季語ではない)にまで昇華された作品だけが俳句文学として認知され、後の世代にまで受け継がれてゆく。・・・たまさかであっても俳句の肉体と定型が結びついた作品は記憶されるのである。安井氏が言うように様々な意味で俳句文学は「イロニー」だが、絶望や諦念とは程遠い無限継続的な戦いの文学である。』と批評しておられます。
論理的に俳句を探究すると、安井-鶴山さんが論じたような俳句論になるでせうね。ここまでが論理の限界だと鶴山さんは書いておられますが、不肖・石川もそう思います。鶴山さんがお書きになった俳句論を、抽象的論理として振りかざすことは誰でも可能だと思います。しかしそこに肉体的確信が加わらなければ上っ滑りの抽象論で終わるでせうね。鶴山さんが安井文学を高く評価するのは、そこに肉体的な確信・信念があるからだと思います。
■ 鶴山裕司 『BOOKレビュー・詩書』『No.017 なぜ俳句なのか、俳句とはなにか-『安井浩司俳句評林全集』(後篇)』 ■