鶴山裕司さんの『BOOKレビュー・詩書』『No.016 なぜ俳句なのか、俳句とはなにか-『安井浩司俳句評林全集』(前篇)』をアップしましたぁ。安井浩司さんの全評論集の書評です。奥付は12月17日発行なので、記録上ではまだ刊行されていない本だなぁ(爆)。でもamazonなどでは販売を開始しております。多分、一番最初の書評でせうね。書評といいましても、鶴山さんの場合体系的な安井浩司論ですので、2回に分けて掲載します。
鶴山さんは『「なぜ俳句なのか」という問いと「俳句とはなにか」という問いは表裏一体である』と書いた上で、『しかし「俳句とはなにか」という問いへの答えは簡単には得られない。・・・いつまでも答えを得られない問いは、俳人の肉体と精神の衰えとともに、ある絶望に包まれた馴れを生む。俳句を書くことに意味などない、「俳句即生活なのだ」という言葉を洩らすようになる。日々淡々と俳句を作り、門弟らの俳句を添削指導し、日常感覚に即した平明な俳句評釈を書くようになる。・・・俳句文学最大の魔である』と批評しておられます。
これは歌人、自由詩の詩人でも同じだなぁ。詩人は書き始めの時期には「なぜ俳句・短歌・自由詩なのか」という問いを抱くことがありますが、それをすぐに忘れて「俳句・短歌・自由詩とはなにか」といふ問いを発するようになります。でもその問いにちゃんと答えられる詩人は少ない。継続して問い続けることすら難しいのです。気がつくと精神的にも肉体的にも頭までギョーカイにどっぷり漬かって、インサイダー的な言動を繰り返すようになる。たいていの詩人は「俳句・短歌・自由詩・とはなにか」といふ問いにスタックしてしまって、当初の「なぜ俳句・短歌・自由詩なのか」といふ問いには戻れないわけです。
安井さんは「なぜ俳句なのか」という問いから始めて、「俳句とはなにか」という問いに移り、さらに「なぜ俳句なのか」という原初的な問いに戻っているといふのが鶴山さんの安井論の要旨です。初発の疑問や意志を忘れないのはどの文学者にとっても必要です。安井さんは俳人たちが迷った時に、進むべき道の指標とすればいい原理主義的俳句作家ですが、こういったお方は本当はどのジャンルでも一人は必要でせうね。
■ 鶴山裕司 『BOOKレビュー・詩書』『No.016 なぜ俳句なのか、俳句とはなにか-『安井浩司俳句評林全集』(前篇)』 ■