『安井浩司俳句評林全集』は安井氏の主要俳句評論を一冊にまとめた本で、八〇四ページの大冊である。既刊評論集『もどき招魂』(昭和四十九年[一九七一年])、『聲前一句』(五十二年[七七年])、『海辺のアポリア』(平成二十二年[二〇一〇年])が中心だが、第四章「拾遺篇」にはこれまでの散文集には収録されていない批評がおさめられている。たいていの俳人の散文著作の大半を占める、初心者向け啓蒙書や俳句評釈、俳壇を巡る折々の状況論などは含まれていない。そういった散文を書いていないのである。ほぼすべてが俳句を巡る原理的考察だということが、安井氏の散文の仕事の特徴である。
主要な評論は安井浩司論を書くために何度も読んできたが、全評論が一冊にまとまったので改めて『評林全集』を通読してみた。一日では無理で二日かかったが、やはり微妙な読後感の変化があった。特に『海辺のアポリア』の安井文学における位置付け(意味付け)が変わった。『海辺のアポリア』は、高柳重信主宰の「俳句評論」、「俳句研究」に発表された批評中心に編まれている。それもあって最後の三篇は高柳重信論で、掉尾を飾るのは重信追悼文である。安井氏と重信の深い関係、あるいは安井氏の前衛俳句へのコミットメントを強く印象付ける書物構成になっていたわけだが、その質についてもっと正確に考えなければならないだろうと思った。
もちろん安井氏は重信の仕事から大きな影響を受けた。しかし安井氏は一貫して重信の仕事に批判的なのだ。それは安井氏が、重信の前衛俳句の代名詞である多行俳句はもちろん、一行書きでも空白を入れたり、はっきりと五七五定型を逸脱するような試みを一度も実践していないことからもわかる。重信や加藤郁乎といった先達の仕事は、安井氏が考える俳句の現代性を獲得するためには避けては通れない敷居だった。だが安井氏は重信系の前衛俳人ではない。安井氏は骨の髄まで永田耕衣の弟子であり、耕衣のいわば〝俳句王道〟に重信らの前衛俳句を統合する形で俳句の現代性を探究したのである。それは『評林全集』の最後に、「無窮の人 師・永田耕衣を仰ぎて」が置かれていることからも読み解くことができるだろう。
私にとって、かなり具体的に直達的に先輩と思われる戦後の俳人の殆んどすべての人たちが、俳句形式にたいする対向的在りようを、やはり生活という答えで受けとらざるをえない道を選んでいる。そういう俳句行為の持続の中に、俳句を書き続ければ書き継ぐほどに、俳句とは何かという命題は肥厚し、なぜ俳句なのかという命題はうすめられ、矮小化してゆく。形式へ殉ずるというきわめて詩の本質に捉えられた逆説が、遂には絶望としての正説に循環し、帰納してゆくのだ。これが定型詩の、とりわけ俳句の私共にむけられた悪意というものではなかったろうか。
(「海辺のアポリア なぜ俳句なのか」)
「なぜ俳句なのか」という問いと「俳句とはなにか」という問いは表裏一体である。ただ「なぜ俳句なのか」という問いは忘れられがちだ。書き始めの頃には多くの俳人が、「なぜ自分はこんなにも俳句に惹かれるのだろうか」と考える。俳句は伝統文学であり、骨董などに通じるような黴臭いイメージがまとわりついている。うっかり「俳句を書いています」などと言おうものなら、「へぇ、若いのに」と冷笑を浴びせかけられることもある。現代詩や小説を書いていると言う方がよほどスマートだ。しかし俳人はすぐに「なぜ俳句なのか」という問いを忘却してしまう。俳句に一所懸命になればなるほど、「俳句とはなにか」という問いしか目に入らなくなるのである。俳句文学の最初の魔である。
しかし「俳句とはなにか」という問いへの答えは簡単には得られない。同時代人なら仰ぎ見るような数々の俊英たちがこの難問に挑み、敗れ去っていったのである。もちろん俳人が「俳句とはなにか」と問い続けるのは当然である。しかしいつまでも答えを得られない問いは、俳人の肉体と精神の衰えとともに、ある絶望に包まれた馴れを生む。俳句を書くことに意味などない、「俳句即生活なのだ」という言葉を洩らすようになる。日々淡々と俳句を作り、門弟らの俳句を添削指導し、日常感覚に即した平明な俳句評釈を書くようになる。「形式へ殉ずるというきわめて詩の本質に捉えられた逆説が、遂には絶望としての正説に循環」して、「生活という答え」を生むのである。今は元気いっぱいの若い俳人たちも、ほぼ例外なくそのような道を辿ることになる。俳句文学最大の魔である。
安井氏は「射るべき〝魂〟は、やはり、遙かに遠いところに在る、と考え、私はこの形式と契約し合っていたことである。合鍵一個で開く手頃の世界は、いやなのであった。そんなもので魂の正面が見えるはずがない」(「渇仰のはて」)と書いている。安井氏にとって俳句はささやかな喜怒哀楽や美醜を表現する小さな器ではなく、人間の魂のすべてを表現できる巨大な形式である。それが「なぜ俳句なのか」という問いへの安井氏の直観的信念(解答)であり、その実現のために技術論を含めた「俳句とはなにか」という問いが発せられることになる。
もちろん安井氏もまた「俳句とはなにか」という問いに完璧に答えられるわけではない。俳句文学を代表する「古池や蛙飛びこむ水の音」(松尾芭蕉)、「菜の花や月は東に日は西に」(与謝蕪村)、「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規)といった作品は単純である。言葉(物)と言葉を取り合わせただけの平明な風景描写(叙景)が、なぜ日本文化の本質的精神像を喚起するのかを説明するのはとても難しい。また河東碧梧桐の無季無韻俳句や重信の現代俳句など、五七五に季語の俳句定型を逸脱した作品が、なぜ俳句文学として認知し得るのかを理論的に説明し尽くすのも困難である。そのため精神的な安らぎを求める伝統派俳人は、頑迷なまでに俳句定型に固執することになる。前衛系の俳人は様々な方法で俳句定型に揺さぶりをかけることで、かえって俳句定型を補完・強化してしまうのである。
しかしこのような俳句文学を巡る難問は、多かれ少なかれ俳句〝定型〟(重信以降の用語で言えば「俳句〝形式〟」)を不動のものとして捉えることから生じている。確かに目に見える形で俳句定型(形式)は存在している。だがその内実は不断に蠕動し続けている。俳句定型(形式)として現象する前の生成メカニズムを明らかにすれば、少なくとも俳句文学の構造は定義できる。「なぜ俳句なのか」と「俳句とはなにか」という問いが表裏一体であるように、俳句本体と俳句形式は不即不離の関係にある。
鶴山裕司
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