菜穂実さんのジェットコースター小説『ケータイ小説!』(第34回)をアップしましたぁ。クライマックスが近づいております。それを明かすのはヤボっちゅーもんですから、コンテンツをお読みください(爆)。楽しくササッと読めてしまふ作品でごちゃります。
ラノベ好きで、ご自分でもラノベをお書きになっている方は怒らないで読んでいただきたひのですが、ラノベが文学業界で今一つ評価されないのは、それが純文学を頂点とする文学業界では、従来の小説文学が衰弱した形態だと捉えられているからです。はっきり言えば作家や編集者を含む文学業界のトップの人たちは、ラノベをおつむの弱い若者が読み、書くものだと見なしている。商売としてはともかく、文学作品としては評価対象外としています。
このような文学業界に反発するのは作家の自由ですが、相手は強靱な権力を持つ制度です。実際、芥川賞、直木賞をあげると言われて断るラノベ作家はおらんでせうな。制度から疎外されているうちは反体制で、制度にWelcomeされるとハニカミながら制度内反体制(重大決定がなされる会議で「僕は反対したよ」と言う人たちのことです)として制度補完機構の歯車になってしまふのは人間の常ですから、ラノベから始めて従来の大衆文学にシフトして文学業界人になる作家の方もいらっしゃいます。でもそれぢゃ面白くないなぁ(爆)。
不肖・石川は文壇反体制を貫けとか、賞をもらふなと言っているわけぢゃありませんよぉ。そうぢゃなくって、ラノベには従来の純文学や大衆文学にない面白さがあることを、もっと強く意識し、表現の核としてほしひわけです。簡単に言いますとラノベと呼ばれる小説文学の形態を、〝文学〟としてプレゼンテーションできる作家の出現を待っているのであります。文学業界は一人の優れた作家が登場するだけでガラリと風向きが変わります。従来の小説文学の中でラノベと言われる形態を相対化し、かつラノベでしか表現不可能な作品を生み出すことができれば、ラノベは文学業界で確固たる市民権を得られると思います。
一昨日のコンテンツで鶴山裕司さんが『俳句文学の構造を理解していれば、基本的にどんなに奇抜な表現でも俳句として成立し得る』と書いておられますが、これは小説文学にも当てはまります。ラノベが好きで、ラノベを書きたいと真剣に考えているのなら、ラノベを巡るネガティブな批評も含めてすべてを検討し、作品を生み出してゆく必要がある。石川は菜穂実さんの『ケータイ小説』を高く評価していますが、この作品は小説文学のエッセンスのような感じです。ラノベへのアプローチは作家それぞれでしょうが、菜穂実さんは、最もシンプルな形で小説文学の核心を表現しやうとしておられると思ふのでありますぅ。