鶴山裕司さんの『BOOKレビュー・詩書』『No.015 俳句の霊魂とはなにか-安井浩司句集『宇宙開』(後篇)』をアップしましたぁ。あいかわらずこのお方の批評はすさまじいですな(爆)。不肖・石川、編集者として鶴山さんが相当に思考を張り巡らせて『宇宙開』論をお書きになったことがよくわかります。しかし難解ですが、論旨の通ったすっきりとした批評になっています。石川が、批評で難しいことを書くときは、少なくともなぜ難しくなるのかが読者に伝わらなければダメと言っているのは、かういふことであります。あやふやな理解のまま批評を書いてもまったくのムダであります。
鶴山さんが安井さんの俳句が難解に見える理由を、『通常の俳句のようには現実を写していない・・・からである。・・・安井氏の現実は、存在が現実世界で現象する・・・以前の状態を含む。・・・通常は夢や幻想と呼ばれる世界である。ただこの想像界はまったくのフィクションではない。・・・わたしたちが現実存在として認識している諸物はその源基を想像界に持っているのである。この現実世界と想像界との関係を的確に認識すれば、現実世界の表現は可変的なものとなる』からだと論じておられます。安井さんの俳句は意識下の想像界を含むのです。
ただ安井さんはさらにその先に赴こうとしておられる。鶴山さんは『空(くう)から世界が現象するのは〝意識〟の発生と同時であり、それは本質的には無人称である・・・端的に言えば、安井氏は意識と物の発生の初源を捉えようとしている。作品を生み出す作家主体でありながら、作品から作家の自我意識をほぼ完全に消し去る無謀な試みが安井氏最後の戦いであると思う』と批評しておられます。そのような作品は、『暗闇に灯りが点じて物が姿を現す一瞬のように、未だ〝自我〟という輪廓を持たない〝意識〟によって世界生成の機微を作品化しようとする。その一瞬は平明な叙述(写生)として表現される』わけです。
鶴山さんが安井文学は、『子規の写生俳句に代表される俳句文学の主流・・・とそれほどかけ離れていない』と書いておられるのは正しいでしょうね。安井さんご自身も、金魚屋の最新インタビューで『昔の古い俳句という意味ではないですが、自分自身では割とクラッシックな作品を書いていると思っているんです』とおっしゃっています。俳句上の師弟ではないのでしょうが、精神的に強く共鳴し合える詩人の出会いならではの批評だと思います。
■ 鶴山裕司 『BOOKレビュー・詩書』『No.015 俳句の霊魂とはなにか-安井浩司句集『宇宙開』(後篇)』 ■