金井純さんの『親御さんのための読書講座』『No.036 無名仮名人名簿 向田邦子著』をアップしましたぁ。脚本家・小説家・エッセイストとして知られる向田邦子さんのエセー集を取り上げておられます。向田さんのエセーも中学受験などに頻出するやうです。
金井さんは、『多くの人の記憶に残るような、いわば華のあるエッセイは向田邦子のものでもある「出来事」が中心にある。・・・出来事そのものに力があるからには、淡々と綴るべきだと感じるセンスさえあればよい』と書いておられます。向田さんの華のあるエセーを否定しているわけではありません。彼女の文章の真髄は、とりたてて〝出来事〟が起こらないエセーにあるといふことです。
『事件らしい事件も起きていないところで、それなりに書くには、著者の物事に対する視点が確立されていなくてはならない。・・・このときエッセイの主眼は・・・・世界に対する私の物の見方、あるいは距離の取り方ということになる。・・・『無名仮名人名簿』での出来事は・・・瑣末なことどもである。ただ、それは著者本人にすれば忘れられないことで、しかしそのような位置付けをさせるのは著者本人の内面、特に自分自身に対する評価である』と金井さんは批評しておられます。不肖・石川も同感です。作家の世界観が表現されていないエセーは面白くないのです。
創作はたっぷりお金と時間をあげるからいい作品を作りなさいと言われて、秀作を生み出せる世界ではありません。お金と時間のやりくりに苦労しても同じことです。よく聞く話ですが、有名誌に書くと枚数を含めクライアントの厳しい要求が発生し、好き勝手に書けないというグチが出る。じゃあ好きなだけ書いてごらんと言われると、たいして書けないから有名誌に掲載してほしい、なけなしの原稿を金に換えたいといふグチになる。逃げですな。本質的には尽きることなく書き続けられるのが作家にとっての理想であり、どんな状況でも一定レベル以上の創作物を量産できるのがプロです。
大切な原稿やアイディアを抱えていると思っている作家は、今すぐ吐き出してしまった方が良い。たいていの場合、他者(読者)にとっては自分が期待していたほど重要な原稿やアイディアではないことがわかります。また吐き出したら書かなければならない。そうすれば書けるという根拠のない自信が、ほんとうの実力なのか、根拠のない自信に過ぎないのかわかります。たいした作品を書けない、量を書けないと悩まなかった作家は少ないでしょうね。自分を厳しい状況に追い込まなければ本当の力は見えませんし書く力を獲得できません。
創作者になるといふことは、作家独自の世界観を持つということです。それを把握すれば作品を量産できるようになります。一作ごとにネタを探し出し、ヒイヒイ喘ぎながら書いていたのではいずれ書けなくなる。そうではなく確立された世界観を中心にネタを集めれば、それは自ずから作品としての秩序を持つようになります。
エセーは小説家や詩人にとっての余技です。本業が確立されていない作家に余技があり得ないのは言うまでもありません。また余技である以上、エセーは軽くこなさなければならない。事件が何も起こらないのにスッと読ませてしまうエセーを書ける作家はプロです。作家の世界観の回りに自ずと言葉が集まってくるからです。
■ 金井純 『親御さんのための読書講座』『No.036 無名仮名人名簿 向田邦子著』 ■