エッセイの名手として、その作品はたびたび入試にも取り上げられるが、小学生などに読ませる場合には、どうしても子供の頃の思い出、また両親(向田邦子の場合は父親のこと)が中心となる。そしてそういうテーマは、実はエッセイの名手でなくても、傑作の一本や二本は誰でも書けるものだ。(逆に言えば、そういうテーマでよいものが書けないとすれば、よほどダメな書き手だということになるが。)
向田邦子の作品の中でもこのエッセイ集は、エッセイの名手というのはどういうものかということを端的に教えてくれる、あるいはエッセイとは何なのかということを考えさせるという意味で名著である。
教科書にも載せられ、多くの人の記憶に残るような、いわば華のあるエッセイは向田邦子のものでもある「出来事」が中心にある。それは戦争であったり、家庭における父のめったに見せない弱気であったりと、その出来事自体、経験した者の記憶に残るものだ。あとはその書き手の文章力によることになるが、出来事そのものに力があるからには、淡々と綴るべきだと感じるセンスさえあればよい。
芸能人など、いわゆる素人さんが書くエッセイは毎回、このような「出来事」を追いかけていることが多い。芸能人なら一般の興味を惹くエピソードには事欠かないかもしれないが、それは出来事を見せているのであって、厳密に言えば文章を読ませているわけではない。
事件らしい事件も起きていないところで、それなりに書くには、著者の物事に対する視点が確立されていなくてはならない。どんな瑣末なきっかけであれ、著者の考え方を示す端緒になりさえすればいいのだ。このときエッセイの主眼は(できれば有名人であってほしい)私の身の回りに起こったあれこれではなく、世界に対する私の物の見方、あるいは距離の取り方ということになる。
エッセイは、日本語では随筆と呼ばれるが、もとは「論」という意味だ。すなわち世界を論じるものであり、世界のすべてを論じ得る思想を有していることを示すには、世界に起きるどんな瑣末なことから論じ始めてもよいはずだ、というところから著者の身の回りのちょっとした出来事をマクラとして語り出すのが形式となった。だからそれは、出来事を開陳するためのものではないのだ。第一、それなら Facebook の方が適している。
『無名仮名人名簿』での出来事は、この何でもないこと、とりわけ他人から見れば記憶に値しない、瑣末なことどもである。ただ、それは著者本人にすれば忘れられないことで、しかしそのような位置付けをさせるのは著者本人の内面、特に自分自身に対する評価である。
これと似て非なることが、素人の自慢ブログなどでしばしば見られる。他人からすれば極くつまらないことが、書き手の自惚れの中で記憶に値する出来事として位置付けられているわけだ。それは逆に、そのようなことを書き並べる中に自身の居場所を拵えようとする試みなのだろうが。
エッセイの名手、向田邦子の『無名仮名人名簿』では、その出来事とは著者本人にとって間の悪い、ときに赤面するようなものである。それは単にサービス精神によるものではなく、自身を読者そのもの、私であり貴方であるところの一般的な存在としようと試みる思想であり、勇気の発露である。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■