鶴山裕司さんの連載エセー『続続・言葉と骨董』『第023回 阿蘭陀人が描かれた古伊万里』をアップしましたぁ。古伊万里シリーズ第三段であります。今回は紅毛人(オランダ人)と南蛮船が描かれた蓋茶碗を取り上げておられます。こりはけっこう高い骨董ぢゃないのかなぁ。不肖・石川、骨董の初心者ではありますが、ちょくちょく骨董屋さんを覗いたりしています。でも実物を見たことも手に取ったこともありません。む~いいなぁ(爆)。
鶴山さんは『紅毛人南蛮船図蓋茶碗』をネタに、歴史解釈について考察しておられます。『歴史解釈は絶対ではない。それは各時代の〝現代情勢〟によって変化する。戦後の江戸=鎖国という概念は昭和初期の国粋主義への反省から生じたものであり、現代の江戸=非・鎖国という再解釈は、情報化時代に突入した現代情勢の影響を色濃く受けている。しかし同時代の欧米諸国と比較すれば、江戸が意図的に情報を遮断した閉じた社会であったのは確かである』と書いておられます。
最近、江戸は鎖国ではなかったんぢゃないかといふ説が有力になってきているんですね。でもそれを議論するためには〝鎖国とはなんぞや〟といふ定義が必要です。鶴山さんは江戸は非・鎖国であったといふ説に疑問を持っておられるやうですが、不肖・石川も同感であります。
また鶴山さんは鎖国から出発して、現代の情報化社会についても書いておられます。『僕は骨董の中で、異文化同士がぶつかった際に生み出された文物が好きだ。・・・それは新たな可能性を生み出してくれる。・・・しかし・・・異文化同士の衝突で起こるスパークは一瞬の夢であり、その夢はほとんどの場合、情報の不足によって生じている。・・・現代の情報化社会はわたしたちに安易な夢を見ることを難しくさせている。どのジャンルでも〝雰囲気(アトモスフィア)〟で何事かを語る時代は完全に終わったのだと言える。新たな夢=可能性を垣間見たいと望むなら、ザラザラとした現実をどこまでも掘り下げ、これ以上解明しようのないある本質に行き当たるしかない時代に差しかかっている』と考察しておられます。
この考えには全面的に賛成だな。情報化時代は諸刃の刃です。ブログやツイッターをやっている作家の場合、誰と仲が良くて、そのおかげでどんな評価が生じて、どういうふうに仕事が回っているのかまで分かってしまふことがある。文学神話もなにもあったもんぢゃない。むしろ底の底まで見えてしまふ。こういう情報化社会で新たな夢を、可能性を見出そうとすれば、鶴山さんが書いておられる方法しかなひように思います。
■ 鶴山裕司 連載エセー『続続・言葉と骨董』『第023回 阿蘭陀人が描かれた古伊万里』 ■