紅毛人南蛮船図蓋茶碗 (著者蔵)
古伊万里について二回続けて書いたので、ついでにもう一本書いておこうと思う。今回は紅毛人(オランダ人)と南蛮船が描かれた蓋茶碗である。日本人はオランダと交易するようになってからオランダ人を紅毛人、その他のスペイン人やポルトガル人を南蛮人と呼ぶようになった。だから本当は紅毛船のはずだが、江戸期を通じて外国船は南蛮船と総称された(黒船は幕末に現れたアメリカ船を指す新たな呼び名である)。お茶道具では高麗時代に作られたのか李朝時代に作られたのかを問わず、朝鮮半島で作られた陶磁器全てを高麗物と呼ぶが、江戸時代に付けられた名称はけっこういい加減である。南蛮船もその一つであり、少なくとも焼物の世界では現在に至るまで通称として使用されている。
よく知られているように室町末期から桃山時代には、南蛮文化と呼ばれる新たな文化が華開いた。大航海時代で世界各地に貿易拠点を築いたヨーロッパ諸国が、極東の島国・日本にまで交易を求めて来航したのである。この時期に来航したのはポルトガル、スペイン、オランダ、それに数は少ないがイギリス船も混じっていた。彼らは日本に鉄砲や世界地図など、当時のヨーロッパ最新文化(文物)をもたらした。大名を始めとする日本の貴顕もヨーロッパ文化を積極的に受け入れた。
古田織部に主導された織部焼など、桃山時代にしか作られなかった焼物はヨーロッパ文化の影響をはっきり受けている。織部焼には『南蛮人燭台』の作例があるが、象られているのはポルトガル人やスペイン人が連れていた黒人奴隷である。彼らは主人のために燈火を掲げていたのである。人里離れた山中に住む美濃の陶工が黒人奴隷を見たとは思えないが、『南蛮人燭台』の制作を指示した貴人(恐らく古田織部配下の茶人)は実際に黒人奴隷を見ており、その役割も理解していた。
【参考】織部南蛮人燭台 梅沢記念館蔵
これもよく知られていることだが、天下統一を成し遂げた徳川政権はキリスト教禁教令を発布し、外国人宣教師はもちろんポルトガルやスペイン商人らを国外退去させた。日本がキリスト教化され、ヨーロッパ諸国の植民地にされることを恐れたからだと言われるが、事はそれほど単純ではないだろう。この時期徳川政権は幕府の基盤を盤石なものとするために、後々災禍をもたらしそうな国内の火種を徹底して排除しようとしていたからである。
徳川家康は大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしたが、その苛烈な施政は旧豊臣方大名全てに及んだ。家康は旧豊家方大名を元々の領地から引き離し、江戸から遠く離れた辺境に改易した。いわゆる外様大名である。大名に少しでも謀反の動きやお家騒動があれば、容赦なくお家取り潰しを行った。また苛政は宗門にも向けられた。織田信長、豊臣秀吉の織豊政権時代から、一向衆を始めとする武装宗団は為政者たちの悩みの種だった。大坂城や金沢城は元々は一向衆の要塞なのである。家康は様々な方法で武装宗団を骨抜きにした。その施策の一環として伴天連追放令があった。外国文化との軋轢なのでキリスト教禁教令が目立って見えるが、外様大名や一向衆にとっても徳川政権の動向は生死に直結する重大事だった。江戸初期の幕府施政は一種の恐怖政治だったのである。
【参考】南蛮屏風(部分) 狩野内膳筆 紙本金地着色 六曲一双 桃山時代 十六世紀末から十七世紀初期 神戸市立博物館蔵
参考図版は江戸初期に狩野派の絵師・内膳が描いたいわゆる南蛮屏風の一部(拡大図)である。戦国時代から江戸初期に来日したのは、ポルトガルやスペイン国王の庇護を受けたドミニコ会やフランシスコ会、イエズス会の宣教師たちだった。様々な事柄が読み取れる絵だが宣教師だけに注目すれば、右下の頭までを灰色の宗服で包み、腰に荒縄を巻き、裸足なのはフランシスコ会士だと考えられている。左下の黒の長いローブをまとった宣教師はイエズス会士だろう。この服装の違いはそれぞれの宗派の思想を表している。
フランシスコ会修道士は清貧・純潔・従順を信奉する神の使徒だった。ドミニコ会も同様の教義である。宗教的情熱に燃えた彼らはキリストの福音を広めるために世界に散らばった。十六世紀末から十七世紀にかけて、スペインは南北アメリカやフィリピン、アフリカを植民地化した(ポルトガルもアフリカやインド、南米の一部を植民地化した)。修道士たちにとって政治と宗教は原則として別物だったが、大局的に言えば植民地政策とキリスト教布教は不分離のものとして進められていった。
彼らは南米やフィリピンの人々に、ほとんど有無を言わさぬ形でキリスト教への改宗を強いた。それを主導したのがドミニコ会やフランシスコ会の修道士たちだった。彼らの〝清貧・純潔・従順〟という宗教思想は非妥協的なものだった。彼らは異文化の中に飛び込んでも従来の厳しい宗教的修行生活を変えず、現地の人たちにもヨーロッパで行っていたのと同じ教義を伝え、それに従うことを求めた。
これに対しイエズス会はやや柔軟だった。『第007回 イエズス会の紋章のデルフト耳盃』で書いたように、イエズス会の宣教師らは現地の習俗を巧みに取り入れて布教に活かそうとした。後年、マテオ・リッチが中国明朝の万暦帝の宮廷に入りこみ、高官として活躍したのはイエズス会ならではの成果だと言える。イエズス会の日本での活動はルイス・フロイスの著作『日本史』などからうかがい知ることができるが、その姿勢はドミニコ・フランシスコ会よりも柔軟で妥協的である。しかし彼らは共に日本や中国の皇帝をキリスト教に改宗させるという夢を抱いていた。その姿勢が豊臣秀吉や徳川家康によって、徐々に反体制勢力(思想)として受けとめられるようになったのである。
オランダはスペインやポルトガルより半世紀ほど遅れて日本貿易に参入した。十六世紀末のオランダはスペイン領だった。しかし国力の増大と共に独立の機運が高まり、一五六八年から始まる八十年戦争を闘い抜いて、遂に一六四八年に独立を勝ち取った。世界初の株式会社であるオランダ東インド会社やインドネシアを中心とするアジアの植民地は、この時期のオランダの国力の象徴である。またオランダはカトリックである宗主国スペインに対抗するために、プロテスタントを国教にした(実際は多数のカトリック教徒も居住していた)。このプロテスタント国家という位置付けが対日貿易では有利に働いた。
遅れて対日貿易に参入したオランダ商人たちは、江戸幕府とスペイン・ポルトガルなどのカトリック国の間で生じている問題を的確に見抜いた。オランダ商人たちは幕府高官らに、カトリック国は日本のキリスト教化と植民地化の野望を抱いていると吹き込んだ。ただその可能性は低かった。オランダはもちろん、スペイン・ポルトガルなどは世界各地で植民地化を推し進めてはいたが、極東にまで多数の軍艦を派遣するのは困難だったからである。
南アメリカがいち早くスペインの植民地になったのは、ヨーロッパから偏西風に乗って帆船を走らせれば自然に南アメリカに着くからである。風を動力とする限り、当時は北アメリカに行くのも難しかった。遅れて植民地化に乗り出したイギリスやフランスが北アメリカに進出したのは、そこがスペイン・ポルトガルなどの植民地先進国が手を伸ばしていない地域だったからである。十七世紀初頭において日本が植民地化される危険は限りなく低かったわけだが、オランダ商人は世界情勢を自分たちに有利になるように利用し、スペインやポルトガルを排除して対日貿易を独占することに成功したのである。
またオランダは、スペインやポルトガルのように日本をキリスト教国化する意志がないことを幕府に言明した。カトリックに比べればプロテスタント陣営の海外布教熱が薄かったのも事実である。オランダはキリスト教文化を一切日本に持ち込まないことを約束し、それは原則として幕府が倒れるまで守られた。さらにプライドの高い当時のヨーロッパ人としては珍しく、オランダは徳川幕府の臣下として特別に交易を許されているという立場を受け入れた。オランダは名より実を取ったのである。実際、豊富に産出されていた日本の金や銀は、江戸期を通じてオランダ交易によってほとんど海外流出してしまった。
古伊万里花籠文色絵八角鉢 (著者蔵)
口径二二・三×高さ四・七センチ(いずれも最大値) 十七世紀中頃(元禄時代)
古伊万里染付赤絵香辛料入れ (著者蔵)
幅八・四×高さ一三センチ(いずれも最大値) 十七世紀中頃(元禄時代)
オランダが日本の伊万里を盛んにヨーロッパに輸出するようになるのは元禄時代頃からである。オランダはインドネシアのバタヴィア(現・ジャカルタ)に東インド会社の貿易拠点を置いており、ここで華僑などと取り引きした中国磁器を盛んにヨーロッパに輸出していた。『第008回 デルフトの衰退とデルフトの誕生』で書いたように、一七〇八年にザクセン国で錬金術師ヨハン・フリードリヒ・ベトガーが磁器の生産に成功するまで、ヨーロッパ人は自力で磁器を作ることができなかった。薄くて軽く丈夫な中国産の磁器は、ほとんど魔術的な作品としてヨーロッパで高値で取り引きされていたのである。
しかし十七世紀初頭になると中国では明朝が衰退し、次の清朝が成立するまでの間、国内が大混乱に陥ってしまった。焼物どころではなくなったのである。そこでオランダは代換品の制作を日本に求めた。僕が持っている元禄伊万里は『古伊万里花籠文色絵八角鉢』と『古伊万里染付赤絵香辛料入れ』くらいだが、いずれもヨーロッパに輸出され、その後日本に戻ってきたいわゆる〝里帰り品〟である。
『八角鉢』の真ん中(見込)には花籠が描かれている。中国磁器にも作例があるが、伊万里で好んで作られた意匠である。この様式はオランダ人の好みにも合ったようで、デルフト焼きに盛んに写された。また『香辛料入れ』はオランダの注文品である。取っ手があり、スプーンを差し込む穴がある焼物は、日本人には用途がわからなかっただろう。
染付だけの初期伊万里の時代を脱して色絵磁器の生産が可能になってはいたが、元禄伊万里はかなり無骨である。器体は肉厚で(割れてしまうので薄くできなかった)、絵付けも粗い。しかしすぐに器形も絵付けも極度に洗練された柿右衛門の時代がやってくる。柿右衛門はデフルトはもちろんドイツのマイセンでも盛んに写しが作られたので、オランダによる伊万里の輸出は十八世紀まで盛んに続けられたことがわかる。
詳しくは『第011回 日本人が描かれたデルフト甲鉢』を読んでいただければと思うが、幕府がオランダ貿易に課した制約は厳しかった。輸出品の伊万里には人物が描かれた皿や人形もあるが、武士の姿を描くのは御法度で全て町人の女性か男性である。日本地図の図柄も禁止されていた。幕府は武装した武士の姿や日本地図を重大な国家機密だと考えていたのである。オランダから輸入する文物に、キリスト教を連想させる図柄があってはならなかったのは言うまでもない。この御禁制をオランダは驚くほど忠実に守った。また幕府の力が強大だった江戸初期には日本側でオランダ人などを描いた作例は少ない。しかし幕末になるにつれて、オランダ人(紅毛人)やオランダ船(南蛮船)の図像が盛んに焼物や浮世絵に描かれるようになる。
紅毛人南蛮船図蓋茶碗 (著者蔵)
口径一三・四×高さ十・二センチ(いずれも最大値) 十八世紀末頃(文化・文政時代)
同 内部
同 高台
冒頭で写真紹介した『紅毛人南蛮船図蓋茶碗』二客は、江戸後期の文化・文政期の作品である。人気の図柄で、その後、伊万里はもちろん大聖寺(石川県)などで数多くの写し物が作られたがこれは本歌(オリジナル)である。南蛮船が描かれた古伊万里は宝船の意匠の変形だと考えられている。珍奇な宝物を運んで来る南蛮船は、七福神を乗せ富と繁栄をもたらしてくれる東洋的な宝船になぞらえられていたのである。『紅毛人南蛮船図蓋茶碗』が紅白の目出度い色遣いであることも納得できるだろう。ただ幕末にオランダ人や南蛮船の図像が増える理由はそれだけではない。ヨーロッパへの関心が高まっていたのである。
『紅毛人南蛮船図蓋茶碗』の蓋には盛装した五人のオランダ人と南蛮船が描かれている。茶碗の胴も同じ模様だがこちらは八人である。オランダ人は幕府によって年一回の参府を義務づけられていたが(後に四年に一回になる)、商館長(日本人はポルトガル語でカピタンと呼んでいた)と書記、医師の三人で上京するのが通例だった。江戸の人は八人もの盛装したオランダ人を見ることはなかったわけだが、出島ではあったかもしれない。簡略化されているが、オランダ人の服装や南蛮船の形は全くの空想ではない。
相変わらずキリスト教は御禁制だったが、幕末になると出島の管理が徐々に緩んでくる。西洋絵画の先駆者だが町人だった司馬江漢ですら実際に出島を訪れ、オランダ人と交流して『西遊旅譚』(寛政六年[一七九四年])などの書物を公刊している。もちろんオランダ人や南蛮船の図入りである。江戸後期には文字と絵を伴う形で、数多くのヨーロッパ関連の情報が流通し始めていた。古伊万里の図像はそれらを粉本(お手本)として描かれている。
十八世紀の半ば頃から、イギリスを中心とするヨーロッパ諸国で驚くべき早さで産業革命が進んだ。十九世紀中頃にはほぼ完成する産業革命によって、現在にまで続く世界の勢力図はほぼ決まったと言ってよい。それほど約一世紀に渡る欧米諸国の産業革命のアドバンテージは決定的だった。江戸後期にはロシアやアメリカ、イギリスの船が日本近海に現れるようになる。蒸気機関がそれを可能にしたのである。正確ではないが幕府上層部はそのような情報を知っていた。この頃になると、キリスト教よりも欧米諸国の圧倒的な富と軍事力の方が脅威になり始めていたのである。相変わらずオランダ人を通してだが、幕府は欧米諸国の知を学ぶために出島の管理を緩めた。その影響が江戸後期の浮世絵や焼物などにも現れている。
最近になって、江戸は本当に鎖国だったのかという議論が高まっている。言うまでもなく江戸の人は鎖国意識を持っていなかった。鎖国という概念は案外新しいのである。一六九〇年頃に長崎商館付きの医師としてエンゲルベルト・ケンペルが来日したが、彼は帰国後に『日本誌』という書物を著した。その序文に「閉じた国」という記述があり、それが十九世紀に翻訳されて鎖国という概念が生まれた。
この鎖国概念は第二次世界大戦後の日本で歴史的事実として定着した。昭和十年代から二十年代の日本では狂信的な国粋主義の嵐が吹き荒れ、それは一種の鎖国状態だった。原則として横文字は禁止され、文化領域では日本の古典文学に関する本ばかり出版された。その弊害を猛省した日本人が、日本の近代化の遅れは江戸の鎖国にまで遡り得るという考えを受け入れたのである。
江戸は鎖国ではなかったという最近の説は、最近になっていっそう研究が進んだ「阿蘭陀風説書」などの存在を根拠にしている。江戸幕府が正式な国交を結んでいた外国は朝鮮とオランダだけである。しかし実際には、大別すれば四つの外交・貿易ルートがあった。簡単に言えば幕府は「長崎口」でオランダと中国と、「対馬口」で朝鮮と、「薩摩口」で琉球と、「松前口」でアイヌと交流・交易していた。これを「四つの口」と呼ぶ。また幕府は新たなオランダ商館長が赴任して来るたびに報告書を提出するのを義務付けていた。「阿蘭陀風説書」であり、オランダ人を通してヨーロッパの最新情報を入手していたのである。江戸期を通じて膨大な数のオランダ風説書が書かれた。
しかし一六四八年のスペインからの完全独立をピークとしてオランダの国力は低下し、ナポレオン戦争ではフランスに占領されて国家自体が消滅してしまう。そのような不都合を正直に報告するはずもなく、オランダ風説書はオランダの国益に基づいた偏ったものだった。それでも貿易ルールを遵守したのと同様に、オランダは信頼するに足る一定の情報を提供し続けた。また幕府は他の外交・貿易ルートを通して、オランダ以外の国々からも情報を得てはいた。
ただオランダ風説書や四つの口を、鎖国ではなかったという説の根拠にするのは少し性急である。確かにオランダ風説書などから幕府は世界情勢を把握していたが、それはごくわずかな幕閣上層部しか知らなかった。情報は閉ざされ独占されていたのである。また日本より強固な鎖国状態にあった朝鮮(対馬口)から正確な大陸情報が入ってきたとは考えにくい。それは琉球口や松前口も同じである。薩摩藩の圧政に喘いでいた琉球や、松前藩の搾取の対象であったアイヌから、東アジアやロシアなどに関する的確な情報が得られた可能性は低い。確かに戦後を通して江戸は鎖国時代という概念が強調され過ぎたきらいはあるが、現代ではオランダ風説書や四つの口という情報源が過大評価されている気配がある。
歴史解釈は絶対ではない。それは各時代の〝現代情勢〟によって変化する。戦後の江戸=鎖国という概念は昭和初期の国粋主義への反省から生じたものであり、現代の江戸=非・鎖国という再解釈は、情報化時代に突入した現代情勢の影響を色濃く受けている。しかし同時代の欧米諸国と比較すれば、江戸が意図的に情報を遮断した閉じた社会であったのは確かである。例えば北朝鮮のような国家が、複数の外交ルートを持っているのだから鎖国状態ではないと言っても、多くの識者は首をかしげるだろう。
鎖国に関してはもっと厳密な定義が必要だ。詳細に読めばオランダ風説書は世界情勢(情報)の宝庫で極めて面白い資料である。だが幕府はその情報を十全に政治に活かせなかった。また幕府が消滅するまでその情報は一般には公開されなかった。倒幕側の勤王の志士たちは、オランダ風説書を読んでいないはずである。オランダ風説書などの歴史資料を過大評価するのは危険である。
僕は骨董の中で、異文化同士がぶつかった際に生み出された文物が好きだ。異文化への驚きや憧れが、はっきり物の形に刻印されて残るからである。それは新たな可能性を生み出してくれる。江戸の人にとって浮世絵や水墨画は日頃見慣れたなんの謎もない絵画だったが、それを初めて大量に目にしたヨーロッパ人は衝撃を受けた。ジャポニズムブームが起こり、印象派などの絵画に決定的な影響を与えたのである。紅毛人や南蛮船が描かれた浮世絵や陶器も同じである。江戸の人たちは南蛮船を宝船と捉えたが、未知のヨーロッパ文化に新たな可能性を感じていた。
このような異文化の衝突はもちろん現代でも起こり得る。しかしその多くは個人の芸術家レベルに留まるだろう。異文化同士の衝突で起こるスパークは一瞬の夢であり、その夢はほとんどの場合、情報の不足によって生じている。世界各地の詳細な情報を即座に入手できる情報化社会では夢を育みにくくなっているのである。もし夢を見るとしても、二十世紀までのそれとは異なるものにならざるを得ない。未知の異文化を触媒に都合のいい夢を見るのではなく、異文化に関する情報を徹底的に集め、その上で自分たちにとっても異文化にとっても本質的な夢(新たな可能性)を紡ぎ出さなければならなくなっている。
現代の情報化社会はわたしたちに安易な夢を見ることを難しくさせている。どのジャンルでも〝雰囲気(アトモスフィア)〟で何事かを語る時代は完全に終わったのだと言える。新たな夢=可能性を垣間見たいと望むなら、ザラザラとした現実をどこまでも掘り下げ、これ以上解明しようのないある本質に行き当たるしかない時代に差しかかっている。骨董・古美術といった古ぼけたジャンルにも、その波は確実に押し寄せてくるだろう。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■