長岡しおりさんの文芸誌時評『No.014 新潮 2014年08月号』をアップしましたぁ。前回に引き続き、ドナルド・キーンさんの連載『石川啄木』の第3回を取り上げておられます。長岡さんは、『第二回からこの第三回にかけて、次々と提示される啄木の冷徹な知性や客観的な判断力は、彼をして目前にいる一人の男とする。とりわけ対象に対する距離感は、甘やかされた感激屋といった通り一遍のイメージでは説明がつかない。結局、すべてを説明するのは、作品のほかないのだ、と思う。私たちはここで示された石川啄木の実像から作品を読み解くのでなく、作品にすでに表れているものの傍証を与えられているのだ、と考えるべきなのだろう』と書いておられます。その通りでせうね。
キーン先生によって新たな光が当てられつつある啄木さんですが、私たちが知っている啄木像だけでも、十分に奇妙で面白いお方です。ま、教科書に載っている、チョ~ベビーフェースの啄木さんの写真の印象が、思いのほか強いのですな(爆)。このお方、矛盾の塊です。歌人として名が残りましたが、歌人という確固たる意識があったかどうかは怪しい。評論では『時代閉塞の現状』が有名で、ファシズム時代の到来を予言したとも言われますが、揺るぎない政治的信条を持っていたとはとても思えない。ただ恐ろしく勘がいいお方です。そのあたり、正に詩人気質のお方だと思います。
もんのすごい乱暴なことを言いますと、不肖・石川は詩人の特性は勘の良さにあると思います。詩は時に〝稲妻の一閃〟とも言われますが、表現としてはとても短い。その短い表現の中で読者の琴線を震わせなければならないわけです。当然、ある本質を射貫く力が必要です。〝勘〟と言ったのはさういふ意味です。奇妙な言い方ですが、優れた愚鈍な小説家は存在しますが、勘の悪い詩人は存在し得ない。もちろんこの勘には、近未来の世界情勢(変化)を見抜く力も含まれます。明らかに大きな変動期に差しかかっている現代において、既存の詩壇利権にしがみついている詩人は勘が悪い。石川が評価しない所以です。
一つ例を挙げますと、キーン先生の『石川啄木』はなぜ詩誌ではなくて、文芸誌の『新潮』に掲載されているのか。そもそも短歌・俳句・自由詩を問わず、キーン先生の『石川啄木』レベルの評論が詩誌に掲載されることがあるのか。一般読者を惹き付け、日本文化の根幹を明らかにするような評論が掲載されることがあるのか、といふことでありまふ。ほぼ皆無です。詩誌に掲載されているのは一ヶ月前に依頼され、次号が出る頃には忘れ去られてしまふ書き飛ばしの状況論が大半です。それを当たり前だと思っている詩人さんたちは先がないと思います。
現状では詩人が世界に向けて仕事をしたいと望むなら、詩誌ではなく文芸誌に作品を発表しなければならないといふのが暗黙の了解といふか、厳然たる事実です。いつまでも詩誌ライター止まりで、文芸詩が設けている詩人枠の書評やエセーしか書かせてもらえない詩人は、そのやうな状態止まりであること自体が物書きとしての限界を自ずから示していることになる。
ただこんなことすらはっきり言う詩人はいませんし、編集者もいません。しかし現状をしっかり見つめれば、そうだと言わざるを得ない。詩人も詩誌も変わろうといふ強い意志を持たなければ、詩誌グズグズ、文芸誌は少なくとも詩誌に比べればずっとマトモといふ構図は、いつまでも変わらないでせうね。
■ 長岡しおり 文芸誌時評 『No.014 新潮 2014年08月号』 ■