ドナルド・キーン氏の連載「石川啄木」第三回。私たちの中の石川啄木のイメージがどんどん崩れ、生きている人が姿を現しつつある。では、私たちの持っていた石川啄木のイメージはどんなものだったか。
まず詩聖。その代表作 = 石川啄木であった。それが抒情詩で、人の感情的なあり様を示していたので、なおさらである。しかも短歌形式に切り取られ、人の輪郭をくっきりさせている感もある。形式に支えられ、どこまでも抒情に溺れてゆく甘美さから、知性とは無縁に思える。またドラマチックな感情的盛り上がりの部分だけを切り取ったような作風から、客観性ともかけ離れている印象である。
第二回までにも、この像はずいぶん揺るがされた。啄木が甘やかされ、貴族的なまでの贅沢を身に付けた、という第一回に示された事実だけでも意外と思う読者は多かったろうが、その結果としての甘美な抒情への耽溺というなら、まだしも説明がつく。しかし第二回からこの第三回にかけて、次々と提示される啄木の冷徹な知性や客観的な判断力は、彼をして目前にいる一人の男とする。とりわけ対象に対する距離感は、甘やかされた感激屋といった通り一遍のイメージでは説明がつかない。
結局、すべてを説明するのは、作品のほかないのだ、と思う。私たちはここで示された石川啄木の実像から作品を読み解くのでなく、作品にすでに表れているものの傍証を与えられているのだ、と考えるべきなのだろう。作品のみごとな完成度は、啄木をして国民的抒情詩人と認めさせたわけだが、その完成度に抒情への距離感はすでに含まれている。
それは通常の、目前にいる一人の男としては、むしろ当然のものだろう。恋人や妻に情熱的であったとしても、それは限定的な解放区でのことだ。女性に対する幻想が強いことが、すべての面において非現実的であることにはならない。その幻想を維持するために、処世術を身に付けざるを得ない、ということもある。
「詩聖」石川啄木が、金銭的に見合わないことから、あまり詩を書こうとしなかったというのも、驚きであると同時に、一人の男としては当然のことでもある。そんな当然の判断を下すということが驚きである、と言うべきか。啄木が試みようとしたのは小説で、これも現在、同様の理由から詩人たちが試みようとするのと同じである。そしてそのある意味で凡庸な経緯において、非凡な違いを示すのは作品以外にはないだろう。
啄木が最初にものした短編小説は、たいへん高く評価されたという。その評価のされ方は、どこか普通の小説家が書いたものと違う、ということだったように感じられる。それこそが詩人・啄木が、金銭のためというきっかけを介して面目を保った、もしくは躍如させたと言うべきだ。
漱石と藤村以外に見るべきものはないとする、小説に対する啄木の見識も、他のたいていの対象に対してと同様、明確である。そして、ただ漱石に「偉大さ」が欠けているとするところが、啄木がやはり普通の小説家と異なるところだろう。作品に偉大さを求めるのは小説家のわざではなく、詩人である。そして奇妙なのだが、生活のための職業としての教職に、啄木は自らの求める「偉大さ」を重ね合わせていたという。生活と自身のあり方を作品化するような考え方もまた、抒情詩人に特有と言えるのではないか。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■