日本が誇る世界的特殊作家、三浦俊彦さんの連載小説『偏態パズル』(第48回)をアップしましたぁ。桑田庸介、仲出芳明さんのおろち体験続編です。この二人、グローリア先生と飯島先生の、おろちを目撃されたことに対する反応を分析するのであります。ん~理屈っぽい小学生だなぁ(爆)。とはいえ不肖・石川の知り合いの詩人さんは、小学校の集団登校の時に犬のうんちを踏んで、『ャヴァィ、いぢめられる』ととっさに判断し、『いいかい君たち、なんのためにズックをはいてると思ってるんだ。犬のんちを踏んでもいいためなんだぞっ!etc』と演説して難を逃れたさうです。理屈っぽい小学生は実在するのですなっ。
そんで桑田・仲出君は、『おとなの男は小学生にとっては異文化である。恐るべし、おとなの男』→『おとなの女は小学生にとって親近の文化である。和むべし、おとなの女』→『男よりも女の方が子どもに近い』といふ論理階梯を踏んで、『女こども、という決まり文句は、何らかの絶対真実と結びついている』といふ結論に達するのであります。しかしここで終わらないのが三浦センセのおろち学です。この結論は『データとした男女の年齢に差がある』、『データとした男女の文化的背景に違いがある』、『二人の怒りあるいは混乱の度合に差がありすぎ、これは反応の差となって表われて当然である』といふ要素を欠落させており、補正されなければならなひとおろち的思考は進んでゆくのでありまふ。
以前、この編集後記で小説の書き方にはそれほどバリエーションはなく、基本的な型があると書いたことがあります。大部分の小説が一人称一視点や三人称一視点といった、決まった型に沿って書かれているのは確かです。三浦センセも他の作品ではそのような型を援用した小説を書いておられます。しかし『偏態パズル』は、作家の〝小さな説〟を全面に押し出した作品です。この書き方、小説を書き慣れていて、かつ強い思想を持った作家でなければできません。作家の感性を含む総合的思想が小説作品をまとめあげているのであり、もし真似しても、たいていはグズグズの作品になってしまふでせうね。『偏態パズル』は恐らく三浦センセの作家としての根幹に迫る作品であるといふことでもありまふ。
■ 三浦俊彦 連載小説 『偏態パズル』(第48回) pdf版 ■
■ 三浦俊彦 連載小説 『偏態パズル』(第48回) テキスト版 ■