偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ まず第一の議題は、
グローリア先生の日本語力がみんなにバレてしまったのではないか?
という心配だった。
というのも、飯島ホエザルひとしきりの大追及の中で――
「ほんとによう。ケツアナがちょうど一番大きく開いてゴクブトが出終わる寸前のいっちばん気持ちいい瞬間によりによってよう。卑怯にも後ろから襲いかかってきやがって……!」
ケツアナがちょうど一番大きく、の瞬間にグローリア先生がうつむいたまま微かに吹いたのを二人は見逃さなかったからだった。あれが他の生徒にも気づかれていたならば当然、グローリア先生の日本語力ひいては日本人度が暴露された可能性が高い。どうしてそのことが問題なのかは論じないまま、二人は「たぶんホエザルの言い方というか発音というか声そのものが面白かっただけということで見逃されるだろう」と一応の結論を見た。
次に議題となったのはもちろん、飯島ホエザルの価値観があまりに生徒の下半身文化とかけ離れている、という事実だった。学校でウンコしたことが知られただけで少なくとも24時間は村八分同然となり死にたくなる的トラウマを擦り付けられる小学生からすれば、ウンコ姿をモロ見られておりながらそれを全員の前で宣言し再確認するという飯島ホエザルの挙動は理解しがたかったのである。生徒だったらもう明日から学校には来れない。
その点、グローリア・ハッチオンの反応は親しみが持てた。というか二人が予想したとおりの反応だった。生徒がああいう目に遭ったら反応するであろう生徒的反応そのものだった。たった今自分がウンコしていたことをみんなの前でカミングアウトする生徒など決して存在しない。グローリア先生の反応があまりにわかりやすく自然だったために、その背景のもとで飯島ホエザル的反応への脅威と畏敬が縁取られ強調されたのであり、また逆にホエザル反応の背景のもとでグローリア反応のわかりやすい輪郭が和み感覚を伴って二人に染み入ったのである。
ここから二人は次の結論を導き出した。推論に夢中になって、話のやりとりとともに足も速くなって、どん尻からいつのまにか級友たちを追い抜き先頭のホエザルと並んでしまってハッと口を押さえて後退する、という一瞬もあったりした。で、桑田康介と仲出芳明が導き出した〈考えてみれば今さらといった感じの結論〉はこれだった。
「おとなの男は小学生にとっては異文化である。恐るべし、おとなの男」
そこから派生する定理はこうだった。
「おとなの女は小学生にとって親近の文化である。和むべし、おとなの女」
さらにここから次の定理が導き出された。
「男よりも女の方が子どもに近い」
「女こども、という決まり文句は、何らかの絶対真実と結びついている」
康介と芳明は顔を見合わせた。当たり前のような定理でありながら、こうも明白な形で導き出されてしまうとは。なにせ人体の軸である消化器官の内容に関わる反応によって実証されたのだから、「女こどもの定理」はもはや疑いようがない。
ウンコという子ども的に最強烈の物質に関する反応が一致しているのでは、女こどもの定理は彼ら的には揺るがない。
そういえば家で父親はしょっちゅう轟音をたてて屁をしているのに母親の屁音なるものを聞いた記憶が定かではない、という非対称的事実に二人は今さらながら思い至り、「われわれ子どもも学校で屁を聞かれようものなら自殺モンだよな」「やっぱ女の方が子どもと一緒か」と納得した二人なのだった。
ただしこのとき二人は興奮して気づかなかったが、二人の論証には多くの不備がある。
まず、
「データとした男女の年齢に差があること」
四十代半ばの飯島隆文に対し、グローリア・ハッチオンは二十代半ばだったと推測される。康介&芳明が「女こどもの定理」を証明したと主張できるためには、サンプルの女が男よりも子どもに近い年齢だった、という事実をあらかじめ除去して、年齢要因を同等にしておかねばならなかったのである。同年齢で実験すれば、なんのことはない男も女も相似の反応を出力したかもしれないからだ。
第二に、
「データとした男女の文化的背景に違いがあること」
飯島隆文は海外旅行の経験一つないのに対し、グローリア・ハッチオンは成人するまでアメリカ合衆国から一歩も出たことがなかった。日本列島と北アメリカ大陸という地域文化的差を除去して、国籍や言語を同一にそろえておかねば、男女の差に特化した「女こどもの定理」が証明されたとは言えない。
この点については、グローリア・ハッチオンは実は日本語が堪能である、という新事実が発覚したプチ衝撃によって、データ二体の文化的同一性は確保できた的暗黙の了解に二人が浸食されてしまっていた可能性が高い。むろん堪能とは言っても、外国語である日本語でストレスを発散することはグローリア・ハッチオンにとって、飯島隆文の場合に比べはるかに困難だったはずである。グローリア先生が慎ましい沈黙を守り、飯島先生がひとしきりクソクソと喚きまくったという違いは、単に生徒に通ずる言語能力の差を示していただけなのかもしれない。それよりなによりグローリア先生が「日本語力を隠したがっている」と二人は察していたはずなのだから、慎ましき沈黙は当然であり、それを小学生的羞恥と勝手に親和的に解釈した二人の推論には矛盾があると言わねばなるまい。
第三に、
「飯島隆文に対しては桑田康介がウンコ付きハンカチで顔を覆ったり背中を蹴飛ばしたりといっ直接暴力を加えた。対してグローリア・ハッチオンに対しては、仲出芳明がいささか強迫的ではあれ石を近くに投ずるという心理的圧迫を加えたにすぎない。二人の怒りあるいは混乱の度合に差がありすぎ、これは反応の差となって表われて当然である。ということ」
つまり二対のデータから性別定位の「女こどもの定理」を導き出すためには、排便中に施す介入の物理的強度を同等にそろえねばならないのであった。ここにおいて大きな差が設けられていたため、今でこそおろち史に残るこの〈桑田・仲出実験〉は、正規の科学実験の体裁をなしているとは言いがたいのである。
以上三つの要因のすべてが、飯島隆文の方を「非子ども的反応」で応ずる見込み高しとするバイアスの源となっているのであり、グローリア・ハッチオンが代表する人類女性そのものが全般的に人類男性より子どもに近いという「女こどもの定理」の価値に疑問符を添える結果となっている。
ところが桑田康介と仲出芳明が残した会話の断片的記録から、二人は、第二要因によって「女こどもの定理」の価値が一挙に挽回回復されていると無意識に判断していたらしいことが今日ではわかっている。すなわち、後に印南哲治の国家主義的兼反国家主義的言論に接したとき桑田康介が吐露した半潜在的信念によれば、彼は「大和民族に比べて大陸民族は羞恥心が薄い」と考えていたらしいのだ。あるいは「黄色人種に比べ白色人種は自意識的不安症の傾向が薄い」と。
グローリア・ハッチオンは白色人種であるから、羞恥心の希薄性という属性をベースとしていたはずである。したがって、「もしも大和民族どうしまたは黄色人種どうしで比べていたとしたら」という補正措置が必要となる。
白人女のグローリア・ハッチオンですらあれほどの「小学生的羞恥心」に囚われて何も言い出せなかったのであるから、もし同じ状況に置かれたのが大和女であったならば――1組担任の矢島啓子先生とか6年のどこかのクラス担任の有藤美穂先生とか音楽の砂谷真紀先生とかだったら――さらに深い小学生的羞恥に囚われてさらに濃厚な演劇的挙動で、いや途中リタイアして帰ってしまうなどという光景が見られたことだろう。「そう、俺たちなら絶対帰ってるよな。野グソなんか見られようものなら」展望台でみなが新宿高層ビル群をわいわい眺めているのを横目に桑田康介と仲出芳明はしきりに納得し合ったのである。
これが桑田康介と仲出芳明の無意識の補正的推論だった可能性が高い。
ちなみにここで注釈しておくが――
「女こどもの定理」を「女子どもの定理」と表記して「じょしどものていり」と読むのは誤りである。おろち学全般における最も頻繁にして有害な誤りであるから、この機に肝に訂正しておいていただきたい。
(第48回 了)
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