鶴山裕司の『短歌・俳句について考える歌誌・句誌時評』& 美術展時評No.146『瀧口修造 書くことと描くこと』展をアップしました。断続的に『短歌・俳句について考える歌誌・句誌時評』8本と美術展時評を1本書いていただきました。
鶴山さんはしばしば日本文学はジャンル別に孤立しておりまるで官庁縦割り行政のようだと書いておられます。また特に俳句について、たいていの俳人は視野が狭いとハッキリ批判している。これは確かにそう。視野が俳句に限られていて、極端なことを言うと575定型は俳句が生み出したんだと言い出しかねない雰囲気がある。滑稽な俳句事大主義です。俳人さんたちは鶴山さんの評論を読んでカッカ頭に来ておられるでしょうね。しかし単なる揶揄や罵倒ではありません。
〝なぜそんなことが起こるのか〟が鶴山さんの興味の焦点でもあります。俳句には近視眼的にならざるを得ない特徴がある。日本文学で一番簡単で一番難しいのが俳句だからです。簡単だと思って俳句を始め、すぐに底なしの沼のような深みにはまる。深みにはまると言っても芭蕉らに代表されるような句が書けないだけのこと。伝統俳句でも前衛俳句でもそれは同じ。じゃあどうすればいいのか。過去の俳句や俳論を読んでじっくり勉強するのか。残念ながらそれだけでは深みから抜け出せない。俳句の沼に囚われながら足掻き続けることになる。
必要なのはヴィジョンです。まずなにより正しい方向性を捉えなければ多くの努力がムダになる。鶴山さんは『正岡子規論』で俳句の原理をほぼ完全に論証しています。俳句は何をどう足掻いても575に季語定型に戻ってくる。その原理を踏まえれば新たな優れた表現は可能です。なぜ575に季語定型なのかを理解すれば逆接的に定型を破り、またその本質を踏まえた俳句を書くことができる。それは俳句を相対化して捉えることでしか得られません。単に形式をなぞっているだけではダメなのです。
美術展時評は実質的には瀧口修造論になっています。当たり前ですね。瀧口さんのアート、美術館で見て「ああキレイだね」で済むわけがない。
■鶴山裕司の短歌・俳句について考える歌誌・句誌時評 No.002 中津昌子「永井陽子論」(角川短歌2026年1月号)■
■鶴山裕司の短歌・俳句について考える歌誌・句誌時評 No.003 坂井修一「かなしみの歌びとたち」(角川短歌2026年2月号)■
■鶴山裕司の短歌・俳句について考える歌誌・句誌時評 No.004 角谷昌子「俳句の水脈・血脈―林田紀音夫」(角川俳句2026年2月号)■
■鶴山裕司の短歌・俳句について考える歌誌・句誌時評 No.005 特集「尾崎放哉没後一〇〇年」(角川短歌2026年4月号)■
■鶴山裕司の短歌・俳句について考える歌誌・句誌時評 No.006 表健太郎句集『琥珀行為』■
■鶴山裕司の短歌・俳句について考える歌誌・句誌時評 No.007 第2回「定家賞」発表(短歌研究2026年1+2月号)■
■鶴山裕司の短歌・俳句について考える歌誌・句誌時評 No.008 奥村晃作/平井弘の研究(短歌研究2026年3+4月号)■
■鶴山裕司の短歌・俳句について考える歌誌・句誌時評 No.009 人物特集 前登志夫を再び読むために(角川短歌2026年3月号)■
■鶴山裕司 美術展時評 No.146『瀧口修造 書くことと描くこと』展(前編)■
■鶴山裕司 美術展時評 No.146『瀧口修造 書くことと描くこと』展(後編)■
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