No.146『瀧口修造 書くことと描くこと』展
於=アーティゾン美術館
会期=2026/06/23~10/04
観覧料=1,500円(窓口販売)/1,200円(ウェブ予約)
カタログ=1,980円

久しぶりのアーティゾン美術館であります。言うまでもなく旧ブリヂストン美術館ですな。ブリヂストン本社ビルの建て替えにともなって平成二十七年(二〇一五年)に休館し、令和二年(二〇二〇年)竣工のミュージアムタワー京橋内にアーティゾン美術館と改名して再オープンした。株式会社ブリヂストンの創業者、石橋正二郎さんのコレクションから始まった美術館である。
ブリヂストン美術館といえばすぐに思いつくのがルノアールやマネ、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなど印象派からポスト印象派の西洋絵画コレクションである。もちろん藤田嗣治、草間彌生らの日本近・現代絵画も収蔵されているが瀧口修造のアートコレクションをお持ちだとは知らなかった。
石橋正二郎さんは昭和五十一年(一九七六年)にお亡くなりになったので彼が設立した財団法人石橋財団が最近になって購入したようだ。「あのブリヂストン美術館(アーティゾン美術館)がねぇ」とちょっと驚きだった。瀧口修造のアート、かなりマニアックである。瀧口アートも完全にエスタブリッシュしたと言いますかシュルレアリスムも歴史的遺産になったのだなぁと思ったのだった。
瀧口修造は明治三十六年(一九〇三年)生まれ、昭和五十四年(七九年)没、享年七十五歲の詩人、美術批評家。日本を代表するシュルレアリストとして知られる。慶應大学在学中に西脇順三郎に師事した。西脇が日本に初めて本格的にシュルレアリスムを紹介した文学者である。
西脇は大正十一年(二二年)から十四年(二五年)にかけてロンドンに留学しジョン・コリアなど当地の文学者と交流した。英語で書いた詩がT・S・エリオットの詩とともに文芸誌〝Chap Book〟に掲載されている。ロンドンで第一詩集で英文詩集の〝Spectrum〟も刊行した。西脇は当初日本語で詩を書けるとは思っておらず、帰国後に萩原朔太郎の詩を読んで初めて日本語で詩を書けると思ったと回想している。日本の自由詩は明治維新後に漢詩に代わる新たな日本の詩のジャンルとして始まったが、西脇の軌跡はそれをよく表している。日本の詩人たちの眼は常に西(欧米)に向けられておりその思想や技法を日本文化に移入し続けていた。
西脇が留学した当時のロンドン(英文学)はヴィクトリアンとモダニズムが混交した時代だった。ただフランスではシュルレアリスムの勃興期でシュルレアリスムの総帥、アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表したのは一九二四年(大正十三年)である。シュルレアリスムはまたたくまにヨーロッパを席捲し、西脇も大きな影響を受け帰国後『超現実主義詩論』(昭和四年[一九二九年])や『シュルレアリスム文學論』(五年[三〇年])などを刊行した。シュルレアリストを称した時期もあった。
ただ西脇はその後シュルナチュラリズム(超自然主義)を標榜しシュルレアリスムとは距離を置くようになった。戦後発表した詩集『旅人かへらず』(昭和二十二年[一九四七年])は西脇の一種の日本回帰詩集である。西脇の詩からシュルレアリスムの技法は抜けなかったがその思想は日本的な無常観に置かれていた。それに対して生涯シュルレアリスムにこだわったのが弟子の瀧口だった。
明治維新以降の新ジャンルである日本の自由詩の歴史は短い。短歌的五七・七五調と抒情を排した口語自由詩を始めたのは萩原朔太郎だがそれを盤石のものとしたのが西脇だった。また西脇・瀧口らが移入したシュルレアリスムの影響は太平洋戦争でいったん断絶したが、戦後すぐに戦前とは比べものにならない質量で受容が再開された。大岡信、飯島耕一、東野芳明らの「シュルレアリスム研究会」(昭和三十一年[一九五六年]発足)などがその代表である。戦後詩人たちはシュルレアリスムの最初の紹介者であり実質的な口語自由詩の祖である西脇を敬愛しながら戦前からのシュルレアリストである瀧口の元に集った。
瀧口は基本詩人(文筆家)だが細々とアート作品も作った。個展も開いているが美術家を称したことはない。あくまでシュルレアリスム活動の一環だった。瀧口が昭和五十四年(一九七九年)に亡くなるとそのアート作品と瀧口に贈られた美術家たちの作品は故郷の富山県美術館に収蔵された。書簡や展覧会資料などは母校の慶應大学アート・センターに、蔵書は多摩美術大学アートアーカイヴセンター収蔵となった。確かほとんどが寄贈だったと思う。超貧乏ではなかったが瀧口は飯島耕一が「どうやって生活しているんだろう」と首をひねるような清貧だった。ただアーティゾン美術館は瀧口のアート作品を購入している。下世話な話しだが瀧口アートにもそれなりの値段がつくようになったんですねぇ。
富山県美術館収蔵のアート作品は平成十三年(二〇〇一年)に開催された「瀧口修造の造形的実験」展図録で見ることができる。この展覧会で瀧口アートはおおむね制作年代順に以下の七つに分類された。美術展は作品を展示するだけでなく新たな学術発表の場でもあるんですね。
(1) エクリチュール、線
最初期のアート作品で文字から派生した線描作品。
(2) デッサン、水彩
線だけではなく水彩の絵に発展した作品。
(3) 飛沫ノ遊ビ
紙の上に絵具を飛沫させた作品。
(4) バーント・ドローイング
彩色された絵を焦がして穴を開けた作品。
(5) ロトデッサン
マルセル・デュシャンの「ロトレリーフ」に倣ってターンテーブルにモーターを取り付けて紙を回転させ、同心円状のドローイングにした作品。
(6) デカルコマニー
シュルレアリストのオスカル・ドミンゲスが始めた技法でガラス板の上に絵具を乗せて紙を押しつけて剥がし、偶然できた模様をアートとする作品。大変美しい作品が多いので瀧口アートの代表作になっている。
(7) 手作り本、オブジェ、共作
瀧口が親しい友人に贈った言葉(詩)入りの小品や美術家との共作。手作り本は大岡信、飯島耕一、巖谷國士らに贈った「リバティ・パスポート(自由旅券)」が有名。「リバティ・パスポート」のほんとんどはまだ個人所蔵じゃないかな。
今回のアーティゾン美術館の展覧会は「瀧口修造の造形的実験」展図録の分類法に沿って構成されている。全163点所蔵だが (1)6点、(2)52点、(3)4点、(4)12点、(5)8点、(6)57点、(7)24点の内訳である。瀧口のアート作品をほぼ網羅している。

■カテゴリー(1) エクリチュール、線■
No.4 無題
1961年製作 水彩、ボールペン・紙 縦38×横27cm
僕のホームグラウンドは自由詩なので瀧口修造に関しては自分なりの捉え方がある。僕が大学生だった一九八〇年代には知恵熱コースとも言うべき詩の学習ルートがあった。海外文学ではボードレールから始まってランボー、マラルメと象徴主義詩人を読み漁り、ポール・ヴァレリーの理知主義あたりでサンボリズムを見切り、それからダダ、シュルレアリスムへと進んだ。モーリス・ナドーの『シュ-ルレアリスムの歴史』が教科書でツァラ、ブルトン、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴンを始めロートレアモン、ジャリ、サド、ルーセルなどブルトンがシュルレアリストと認定した作家はあらかた読んだ。エドモン・ジャベスの『問いの書』くらいでフランス詩は一応終わりというコースだった。変わり種はヴィクトル・セガレンくらいか。
日本の詩では朔太郎から西脇・瀧口、中原中也・宮澤賢治を合いの手に入れて、鮎川信夫・田村隆一らの戦後詩、シュルレアリスム系の大岡信、飯島耕一、吉岡実、そして現代詩の入沢康夫、岩成達也らを読み耽るというコースだった。中でもシュルレアリスムには一時期熱中した。もちろん瀧口が中心で全集が出ていなかったので主要著作を集めて読んだ。
私の頭のなかには、いわば他人の絵がいつぱいつまつている。私は美術批評家連盟の一員である。私がもし絵を描こうとすれば、どんな絵を描くだろう? こんな問いが私自身のなかにもないわけではない。しかしすくなくとも私がこんなことをはじめたそもそもの動機には、「絵を描いてみる」とか、まして画家になりたいとかいつたことは寸分もなかつた。もしそんな気持がすこしでもあれば、私は混乱して何もつづけられなかつたにちがいない。私はこの文章のなかでも書くと描くという用語が不分明のまま使われている思うのだが、もはや私はけつこう絵らしいものを描いているのだから、これを絵ではないなどという言い逃れをしようとは思わない。しかし私はどこまでも動機を尊重したい。というよりも、私のデッサンにすこしでも取柄があるとすれば、動機だけだといえるようになりたいのである。デッサンの衝動が現われるとき、それを直接にとらえることが私には重要なのである。しかも私はそうした行動にできるだけ自由をあたえたい。ことに批評家というレッテルのために左右されまいとしている。私もすべての人間のようにデッサンする手をもつているという単純な事実をまず率直に確認したいと思う。もっとも、このような配慮は私がデッサンする場合に何も問題なつていないので、すべてあとからの付けたしである。
瀧口修造「私も描く」(初出「芸術新潮」昭和三十六年[一九六一年]五月号)
今回の展覧会図録に瀧口が絵を描く動機を書いた文章として再録されたエッセイ「私も描く」の一部である。瀧口の著作を読み慣れた人には「ああ瀧口だな」と思うようなエッセイである。後期、つまり戦後の瀧口の散文は「私も描く」のようなテイストのものが多い。

■カテゴリー(2) デッサン、水彩■
No.7 無題
1960年製作 水彩、インク・紙 縦22×横20cm
シュルレアリスムは人間の無意識、俗に言う夢の世界を言語や絵画として解放した芸術運動だと言われる(いささか通俗的ですが)。無意識界の解放だから表現可能性は無限だった。実際シュルレアリスムが世界中で一大ブームになったのは従来的な文学や絵画の規範にとらわれず自由自在な表現を可能にしたからである。しかし瀧口の、特に戦後の文筆活動は苦しげだ。
瀧口は一時期失語症に陥って詩や批評が書けなくなったことが知られている。また失語症からの回復期にアート作品が生まれたようだ。そのアート活動についても「絵と呼んでいいのだが、やっぱりちょっと違う」と煮え切らない。「私はどこまでも動機を尊重したい」とあるように彼のアートは〝デッサンを描こうとする初発の動機〟で止まっている。最初のひと文字、最初の線を書く―描くことが彼にはとてつもない苦痛であり大きな飛躍を要する冒険だった。
鶴山裕司(後編に続く)
■鶴山裕司の本■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■


