
今月号の特集は「尾崎放哉没後一〇〇年 孤と独――自己との対話」。放哉は種田山頭火と並ぶ自由律俳句を代表する俳人である。よく知られているように放哉も山頭火も生活破綻者。二人とも生家は裕福で高い教育を受けている。しかし仕事に就いても長続きしなかった。結婚もしていて山頭火は子供までもうけたが、ほったらかしで愛想を尽かされ離婚。ともに大酒飲みで酒癖が悪かった。特に放哉の生前の評判は最悪だ。貧乏な上に高慢で酒乱。人口に膾炙する俳句がなければ迷惑な人以外のなにものでもない。
そういった社会的落伍者だったことも影響しているのか、俳句の世界での放哉・山頭火の扱いは概して軽い。「素人が好きな俳句モドキだよね」くらいの感じ。もうちょっとブンガクテキに言うと現在に至るまで俳句は有季定型が絶対的主流なので、「俳句として認めてやってもいいけど、やっぱりわたしらの俳句とは違うからね」と番外扱いである。なんとなく下に見られている気配である。
ただ一般読書界での放哉・山頭火の人気は絶大だ。放哉「咳をしても一人」、山頭火「うしろすがたのしぐれてゆくか」などは作者名を知らなくても多くの人が記憶している。一度聞いたら(読んだら)忘れられないのだ。なぜそうなるのかと言えば、なんらかの本質を衝いているからである。また句だけが記憶されるのはよくあること。「柿食へば」もそうだ。多くの人が子規句だと知らないで覚えている。九九・九パーセント以上の俳人が放哉や山頭火に比肩できる句を残せない(残せていない)のも事実。
彼らの句は無季(季語がない)無韻(五七五定型ではない)なので有季定型俳句ではないと言うのは正しい。しかし問題の審級を俳句文学の本質にまで上げて「放哉・山頭火の自由律は形式を超えて俳句なのか」と考え始めると大きな敷居が生じる。が、いくら形式にこだわっても俳句を直観理解している一般読者の絶大な支持は変わらない。彼らの作品は俳句であり名句だと認知されている。いつまでも敷居の上で曖昧に揺れ続けているのではなく、なぜ放哉・山頭火の単純極まりない自由律が俳句であり名句であるのかを明らかにし、無知蒙昧な素人が言語化できないその理由を明らかにしてやるのがプロ俳人というものだろう。
俳人は疑いもなく五七五に季語の定型に魅了されてキャリアを始めるせいか、概して素直な性格のお方が多い。結社に入り師につくとその俳風を頑なに守ろうとする。それは自由律派も同じ。小さいながら結社を作りその伝統を守り継いでいる。しかし今に至るまで自由律派から突出した俳人は放哉・山頭火しか現れていない。なぜか。彼らは群れなかったからである。ここで始めて彼らの「孤独」がその文学と重なり合う。
ただし孤独と言ってもお友だちが欲しいのにできない的なものではない。共同体からハミ子にされたわけでもない。放哉・山頭火ともにその人生はよく知られているのではしょるが、晩年の彼らは明らかな世捨て人である。積極的に人間と交わりたくないので自分から世を捨てている。その意味で彼らの孤独はスタンドアロンであり人間の原罪に近い。人間同士の絶対的相互理解は不可能で本質的に孤独だという認識があり、それゆえ社会(他者)との交わりを捨てることを選んだ。
また自由律俳句は投げやりな徒手空拳に見えないこともない。しかしそうではない。放哉・山頭火はともに荻原井泉水門である。偶然ではない。井泉水は季語は排したが季感を排除しなかった。五七五定型や歲時期的季語を使わなくとも俳句はじゅうぶん成立し得るという思想があった。それが本当に徒手空拳だった中塚一碧楼との最大の違いだ。自堕落な生活に惑わされがちだが放哉と山頭火はインテリである。世捨て人の純粋さで井泉水の思想を肉体化したと言ってよい。
心をまとめる鉛筆とがらす
大正十四年十月五日の井泉水宛の手紙に、「(前略)私としてハ、ドンナマヅイ句であつても、それが、ホントに吐いた言葉で、嘘で無いもの、作りもので無い故捨てゝしまへないので、ソレデなんでも、かんでも、コミにしてアンタの処に、突つ込んで置くのです(後略)」とある。この年、放哉は小豆島の南郷庵に安住することを決めた。(中略)九月一日から「入庵食記」をつけはじめ、月平均二七〇句ほども井泉水に送りつけたらしい。鉛筆をとがらすのは書く意志であり、淋しさではない。
放哉は大正十年、知友宛に「最早社会に身を置くの愚を知り、社会と離れて孤独を守るにしかず」と書き送っている。この作家は嘘ではない「孤独」を書くために意図して「孤独」を作りだした。しかし、何かを書いてさえいれば、あなたはひとりではないし、淋しくなんかなかったはずだ。
佐藤文香「あなたは孤独ではない」
佐藤文香さんの放哉論「あなたは孤独ではない」は大変面白いポイントを衝いている。放哉は自分の句には〝真実〟(「ホントに吐いた言葉で、嘘で無いもの、作りもので無い」)が表現されていると書いた。放哉句に頻出する「一人」は孤独であることの淋しさや自己憐憫ではない。ちょっと奇妙な言い方になるが単なる真実である。一切の感傷は排除されており無機質で残酷だ。だから放哉句は強い。叙景句も同様で現実そのまま。つまり最もミニマムで正確な写生である。子規が唱えた写生と質は同じだ。
咳をしても一人
墓地からもどって来ても一人
墓のうらに廻る
一日物云はず蝶の影さす
いれものがない両手でうける
こんなよい月を一人で見て寝る
一人の道が暮れて来た
昼の蚊たたいて古新聞よんで
どつかで猫が鳴いとる
海風に筒抜けられて居るいつも一人
障子あけて置く海も暮れきる
爪切ったゆびが十本ある
なんと丸い月が出たよ窓
春の山のうしろから烟が出だした
放哉
自由律では無限に自由な表現が可能である。しかしそこに俳句がくっつくと逆転する。定型・季語なしで俳句の本質を表現しなければならないからである。つまり無限にあったはずの自由の取捨選択が始まる。既存俳句から自由であろうとすれば必然的に俳句的なものすべてが排除される。その断捨離に近い選択によってほぼ極限的にミニマムな俳句を生んだのが放哉と山頭火である。ではなぜ彼らにはそれが可能だったのか。
複数のアプローチ方法がある。思想面を言えば放哉・山頭火は出家者である。ただし崇高な宗教的悟りとは無縁。自らの堕落を含め世の中の汚穢、矛盾、残酷を裸眼で見つめる禅者の心性に近い。生活落伍者としてどうしようもなく社会底辺に押し込まれていったからでは必ずしもない。たいていの生活落伍者はあくまでよりよい生活を求めるが彼らは無一物に留まった。現世的苦を創作の基盤とした。井泉水『層雲』投稿者だったという以外ほぼ接点がない放哉と山頭火の生活と心性は似すぎている。
放哉と山頭火が活躍した大正時代末から昭和初期はは私小説全盛期である。もっと正確に言うと葛西善造、広津和郎、藤澤淸造らのまったく救いのない現世的苦を描く極私的私小説作家たちが活躍した時代だった。俳句でも小説でもその後極私的作家は現れていない以上、時代的影響も考えなくてはならない。社会が豊かになって貧富の格差が広がり、社会主義思想を一縷の望みにして社会的不満が大きく高まっていった時代である。やがてその不満はガス抜きのように国外に敵を見出し悲惨な戦争に向かうことになる。
鶴山裕司
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