
表健太郎句集『琥珀行為』
発行 令和七年十一月二十日
私家版 限定三十部
発行所 調布市緑ヶ丘二丁目二十七番地一号
印刷・製本 五時館
連載タイトルは「短歌・俳句について考える歌誌・句誌時評」だが面白そうな作品集も取り上げていくことにする。今回は表健太郎さんの句集『琥珀行為』である。
『琥珀行為』は表さんの第二句集。以前第一句集『鵲歌*黄金平糖記』について書いたことがある。二十部の限定手製本だったが『琥珀行為』も限定三十部の手製本。多くても読者三十人ではまことに心もとないがその理由は「後記」に記されている。
(前略)あの日から亡父との対話は続いているとしても、生来の遅滞願望は年を重ねるごとに益々手がつけられないものになってきている。従ってこの一冊は、他者よりも己れに向けた病理の報告書である。
しかし、なぜこれほどまで歩幅を狭めようとするのか。おそらくは〈生きる時間〉と〈生きられた時間〉が終わりの一点において一致するのか、どこかに疑いがあるからだろう。
今回も完全手製にしたため、限られた部数しか発行できない。外部に任せればずっと楽につくれるはずだが、色々考え合わせると納得いくかたちにするには、結局この方法が最良と思った。
表健太郎句集『琥珀行為』「後記」より
「あの日から亡父との対話は続いている」とあるように表さんにとって亡きお父さまは非常に重要な存在だったようだ。前句集『鵲歌*黄金平糖記』はタイトル通り「鵲歌」と「黄金平糖記」の二部構成で「後記」に「鵲歌」篇「五十句は父の一周忌から半年を経過した二〇一九年六月、ふと見上げた空に言いようのない懐かしさを覚え、促されるようにして一気に書き上げたものである」とあった。『琥珀行為』の主題は前句集を引き継いでいる。
では「亡父との対話」はどのような形で続いているのか。それは年齢を重ねるごとに強まる「生来の遅滞願望」としてあり、『琥珀行為』は表さんの「病理の報告書」だと認識されている。さらに「遅滞願望」とは「歩幅を狭め」ることであり、それは「〈生きる時間〉と〈生きられた時間〉」が「一致するのか」「疑いがある」ために生じていると書かれている。
詩や小説といった文学作品は必ずしも論理では説明できない何ごとかを言語化したものである。『琥珀行為』「後記」も短文だがなかなか手強い。あえて解釈すれば何ごともなく平穏に過ぎてゆく日常と亡くなった父親との濃厚な時間――あるいは自己の平凡な日常と濃密である(はずの)生の時間――の間に強烈な異和を感じているということになるだろう。その異和は極私的なものでありそれゆえ句集が少部数手製本になったのだと解釈できる。極私的求心性がA6版の小さな版型と三十部限定手製本になった。
ただ詩的な散文とはいえ「後記」は「後記」に過ぎない。問題は表さんの表現主題がどのような形で作品化されているかということだ。
鳥逃げて鳥籠に来る昼不思議
「鳥逃げて」は最も『琥珀行為』らしい一句である。前句集『鵲歌*黄金平糖記』から表さんの句は不在の何ごとかを巡っていた。時に不在のイデアそのものに近接しようとも試みていた。しかし『琥珀行為』に性急なイデア探求の句はほぼない。奇妙な言い方だが〈不在の在〉が純化されている。不在のイデアは不在のままそこに在る。堅牢な鳥籠に日常の時間が流れ中に不在の鳥(イデア)が封印されている。

『琥珀行為』扉

同 本文

同 奥付
カーテンの膨らみ腕を抜け五月
少年の寝息に少し膨らむ街
薔薇の影踏む赤きもの感じつつ
野川というひかりのおびをなすながれ
蟻たかる飴より午後のひかり漏れ
水風呂に光溜めおきヴェルヌ読む
暮れて濃き詰草原に探す鍵
エプロンに青梅こぼれ祖母若し
波起こる辺りを亡父の眼で見つめ
人形を叱る声して梅雨の家
プール出てあるとも言えず色かたち
乗り遅れバス停の空何もなし
夕立去り黒き鏡の道を踏む
貝殻や耳より入れてぬるき夢
霊園の霊突き抜けて鬼やんま
炎昼を蝶かもしれぬものの群れ
身は影になるとき海は赤くなる
日に焼けし畳の上を祖霊たち
製鉄所滅びて高し夏の雲
どの秋の時計も少し違う二時
影の字にも影ありすべてのものに影
幼年の声捨てに行く麦の波
鈴虫や朝の匂いに亡父来て
薄い句集だがそれは一ページに五句印刷されているためで『琥珀行為』収録句は全一九六句である。意欲的若手俳人の句集収録数としては決して少なくない。また作家の手で装幀やレイアウト、製本まで為されているだけあって句は非常に高いレベルで統一されている。読めばスッと句集世界に入り込むことができる。俳句なので具体物が取り合わされてはいる。しかしいずれの句も現実の上位審級に浮上しようとしている。その意味で大変観念的な句である。このような具体的かつ本質的に観念的句を書く作家は表さんくらいだろう。新たな前衛俳句だと思う。
もちろん作家である以上この先もある。句集『琥珀行為』が「他者よりも己れに向けた病理の報告書」であるならば病が癒えればもはや書く必要がなくなるかもしれない。あるいはさらに病が深まるかもしれない。それが新たな表現を生む可能性もある。
構造的に言うと『琥珀行為』は堅牢な外皮に不在が包み込まれた――閉じ込められた――ような句集である。視覚的にそんな〈像〉が浮かぶ。それはほとんど俳句という〈像〉に重なる。たいていの俳句は五七五に季語の堅牢な形式を除けば中身はない。中身がなければならないというわけではない。〈不在の在〉以外俳句の中身は本質的にあり得ない。
なお余計なことを書いておくと『琥珀行為』の少部数手製本は俳句に自信がないゆえの刊行形態ではない。俳句と出版形態が合致している。こんな手の込んだ本を作るより印刷所に丸投げした方が手間は少ないだろう。気が向いたらいずれ三〇〇部程度の句集成を刷って出せばよい。
鶴山裕司
■鶴山裕司の本■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■


