萩野篤人 連載評論『アブラハムの末裔』(第04回)をアップしましたぁ。うーん、厳しい評論ですね。ただ必要不可欠な評論であり、是非皆さんに読んでいただきたい。
ひとのいのちは何ものにも代え難い。誰しも生きる権利がある。ひとは(法の下に、神の下に)みな平等なのだ。いくらそう言ってきかせようとも、かれにはいささかもひびかないだろう。「私もまったく同感です。」と返されるだけである。なぜなら「私が殺したのは人ではない」のだから。おどろくにはあたらない。有色人種を同じ人とは思っていない白人がいることも、先の米大統領選挙は不正であり、それを糺(ただ)すためには議会へ乱入しようと、阻止しようとする者へ発砲しようと正当な行為だと未だに考える一部のトランプ主義者も、精神病者や、病あるいは遺伝子異常のため異形となった者や、階級社会を維持するため支配者によって下層階級へ貶(おとし)められた民が、姿をさらけ出すことのないよう権力による管理・隔離政策がとられてきたことも、ナチスのホロコーストも優性政策も、みな同様の論理によって生まれた歴史的事実であろう。かれらにとって、それは差別でも人権侵害でも暴力装置でもない。当のおこないの「正しさ」は(あくまでかれらの基準では)自明でなくてはならない。彼我のこの非対称性、同一の土俵へ乗ることの困難さは、もっぱら権力の担い手が操る、「正しさ」と紐づけるための話法によって作り出されるのである。
萩野篤人『アブラハムの末裔』
津久井やまゆり園事件を起こした植松聖という人は、法廷でも奇矯な振る舞いをしました。しかし萩野さんが書いておられるように「薬物中毒や精神疾患、あるいは異常性格の持ち主による特異な犯行などとすることで、事件を矮小(わいしょう)化してはなるまい」。
植松聖は少なくとも自分が起こした事件の責任を取りました。自ら控訴を取り下げて死刑が確定した。それは彼に思想があることを示している。そう考えなければこの事件は矮小化されてしまう。死刑でこの事件に幕を下ろすことはできません。それでは本質的問題(アポリア)の解消にはならない。
組織は責任を取らない。国家でも企業でも同じこと。特に現代ではトップが全責任を負うのは稀なことで、たいてい謝罪や賠償などで終わる。しかし植松聖は責任を負った。その植松に、これも個として萩野さんは対峙しています。この評論は植松と萩野さんの思想の闘いでもあります。
■萩野篤人 連載評論『アブラハムの末裔』(第04回) 縦書版■
■萩野篤人 連載評論『アブラハムの末裔』(第04回) 横書版■
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