「津久井やまゆり園」事件はなぜ起こったのか。それは偏執狂的人間の常軌を逸した犯行なのか。そうではあるまい。そこには「全人類が心の隅に隠した想い」、決して表立って語られることのない〝思想〟が隠されている。
金魚屋新人賞選考委員辻原登が、「その真の価値は作家の〝肉体的思想〟が表現されていることにある」と絶賛した現実の事件を超えた思想的事件を巡る衝撃的評論!
by 金魚屋編集部
三.「正しさ」という背理
植松は薬物を常用していたと伝えられているが、薬物中毒や精神疾患、あるいは異常性格の持ち主による特異な犯行などとすることで、事件を矮小化してはなるまい。事実、二〇二〇年一月八日の初公判において、かれは「皆さまに深くおわびします。」と言って頭を下げるなり右の小指を噛み切ろうとし、止めに入った刑務官に抵抗して暴れ、退廷させられた。*1この、意図的に精神疾患を争点へ誘導するかのようなふるまいに、わたしたちは惑わされてはならない。韜晦する意図であろうとなかろうと、それが突発的な衝動ではなく、何らかの思惑に基づくふるまいであるとしたら、それをみちびくロジックは一九名の殺害に至るロジックと、おそらく同一線上にある。「深くおわび」はしても、それは世間を騒がせたことに対してであって、間違っても被害者とその遺族にではない。自分がなしたことの「正しさ」に変わりはない。植松はそう言いたいのだ。かれの一連の行為を現代社会の抱える病理、まして個人的病理へと還元する学識者諸兄は、みな本質を見誤っている。問題にしなくてはならないのは、このロジックなのである。なぜならかれはこの世を退場しようと、ロジックは人びとの間に残るからである。そして、いつかまたこのロジックを実行する者があらわれるからである。
わたしたちの隣人がある日突如としてテロリストと化す今日の世界のありようと共振するように、近所のごく「ふつう」の「善良な」ひとの誰かが、ひいてはわたしたちの中の誰もが犯人となりうること、そこに事件の本当のおそろしさがある。それが「自身の内なる植松」である。テロリストとの共通点は何か。いずれも自らのおこないを「正しい」と信じて疑わないことである。あるいは、自らの思いを「正しさ」の中へ溶融させることである。おそらく、植松にもひとを殺めることへの疚しさや罪悪感がまったくなかったわけではあるまい。疚しさや罪悪感を上回るほどに強い使命感を抱いていたか、そもそも疚しさや罪悪感を抱く対象ですらなかったかの、いずれかであろう。そして、いずれの場合でもそれを「正しさ」という信念と融合させることなくして、この未曾有の大量殺傷事件へと一歩を踏み出しえたはずがない。
事実かれはこう語ったという。
「人を殺してはいけないというのは当然です。でも、私が殺したのは人ではない。」*2(強調は引用者)
ひとのいのちは何ものにも代え難い。誰しも生きる権利がある。ひとは(法の下に、神の下に)みな平等なのだ。いくらそう言ってきかせようとも、かれにはいささかもひびかないだろう。「私もまったく同感です。」と返されるだけである。なぜなら「私が殺したのは人ではない」のだから。おどろくにはあたらない。有色人種を同じ人とは思っていない白人がいることも、先の米大統領選挙は不正であり、それを糺すためには議会へ乱入しようと、阻止しようとする者へ発砲しようと正当な行為だと未だに考える一部のトランプ主義者も、精神病者や、病あるいは遺伝子異常のため異形となった者や、階級社会を維持するため支配者によって下層階級へ貶められた民が、姿をさらけ出すことのないよう権力による管理・隔離政策がとられてきたことも、ナチスのホロコーストも優性政策も、みな同様の論理によって生まれた歴史的事実であろう。かれらにとって、それは差別でも人権侵害でも暴力装置でもない。当のおこないの「正しさ」は(あくまでかれらの基準では)自明でなくてはならない。彼我のこの非対称性、同一の土俵へ乗ることの困難さは、もっぱら権力の担い手が操る、「正しさ」と紐づけるための話法によって作り出されるのである。
植松にしてみても、下された一審判決に対し「いまさら控訴するというのは筋が通らない。」*3とまるでヒーローにでもなったかのようだが(二〇二二年四月一日付で、横浜地方裁判所に再審請求がなされていたが、地裁側は再審をする理由がないとして、二〇二三年四月一八日、棄却する決定を下した。弁護人は翌二四日、決定を不服として即時抗告。四月二四日新聞各紙報道)、そう主張できるとかれ自身がみなす「正当な」理由がそこにあるからだ。
ひるがえして言えば、「ひと」や「人間」と呼ばれる存在もしくは概念が、どれほど恣意的で揺らぎやすくまた脆弱であるかを、にもかかわらず、それをかろうじて支えているのが「正しさ」もしくは「正しさ」への信念あるいは信仰でもあることを、これらの事実は示している。異教、異端、背教者、異形の者、不可触の者……そうみなされるだけ、まだいい。どのような眼差しであろうと、見られうる存在は、そこへ光がおよぶゆえに可能となる。だがどんな共同体や宗教にとっても、そもそもその視野に入らないような存在、したがって被差別や疎外や救済の対象にさえ端からなりえず、およそ存在ですらない存在が、この世にはあるのだ。「人間」と呼ばれる脆弱な概念がしばしば選別と排除の暴力的なイデオロギー装置へ転じるのも、あるいは逆に一筋の光芒(こうぼう)となりうるのも、このためだ。このことへの「おそれとおののき」だけが、はじめてわたしたちを物語の外へと開きうるだろう。
それゆえ問題の核心は、ものごとを自らの「正しさ」へと結びつける、あらゆる考えとおこないにあると言うべきだろう。「大義」なき戦争、言いかえれば自らを正当化せずしてなされた戦争やジェノサイドなど、世にあったためしがないことは、このたびのロシアによるウクライナ侵攻にも明らかだろう。顧みれば、昨日まではお国のために身命を抛つもいとわぬと公言していた輩が、今日は声高に反戦を唱和する。人種、疫病、身分制度、ジェンダー等々に対する差別や隔離政策、ヘイトスピーチを非難するその同じ者が、いざ自分の身近に対象者がいるとわかればたちまち排斥者にくら替えする。その逆もあるだろう。無口で善良そうだった近所の青年が、ある日テロリストと化する。新型コロナ患者と判明するや否や、そのひとが医療従事者であっても「えんがちょ」される。これらはみな同根である。わたしたちは何時であろうとどこであろうと、また意思や節操や旗幟がどうあれ、義人にも殺人者にもヒーローにも、権力者にも極悪人にもホームレスにも聖人にもなりうる。わたしたちをつねに翻弄し続けて止まない「機縁」とは、そのようなものである。その正体をつきつめようといくら掘り進んでも掘り進んでも、わたしたちは「底が無い」(九鬼周造『偶然性の問題』岩波文庫、二七一頁)絶対のたまさかに遭遇するほかない(九鬼はこれを「原始偶然」と呼んだ)。それはすべての意味や価値の「外」に、善悪の彼岸をとおり抜けた、さらにそのかなたにある。かなたからふり返って見ることが可能ならば、このような「機縁」に弄ばれ、抗い、おそれ、嘆きかなしみ、よろこびながら不条理なこの世界を駆け抜けていくわたしたちの生ほどに奇しきさまが他にあろうか。
かくしてわたしたちは、「正しさ」に無前提にみちびかれ善悪といった色分けへと安易に帰結するあらゆる思想とおこないに、どこまでも抗わなくてはならない。断っておきたいのだが、私は「正しさ」はたまたま生じた、「諸悪」と同レベルの、やくたいもない仮象にすぎないと排斥しているのではない。「正しさ」を放棄することとそれに抗うこととは、まったく別のことである。前者はたやすいが、後者は至難の業である。後者は「正しさ」を自己崩壊の瀬戸際までどこまでも追い求めるジレンマに耐え抜くことであり、さもなくば、世のすべての「正しさ」至上主義と同じ穴のムジナになってしまうからである。そうならないためには、
みな、汚れた者となり、正義の行いも、汚れた布のようだった。*4
と旧約聖書(イザヤ書)に記されてあるように、そこに脈打っている精神のように、対峙すべきなのである。「正しさ」は、たとえ何ぴとであろうと、わたしたちの側にはない。あると思った途端、それは汚れてしまう。わたしたちが手に掲げうるのは、血や汗や垢に汚れた肌着にすぎない。だから高らかに掲げるのではなく、それを恥じ、心の痛みを堪えながら、それでも孜々(しし)天使として追求し続けなくてはならないのが「正しさ」なのである。
「信じること」も「信仰」も、また同様である。それらは「正しさ」と血を分けた兄弟である。ひとは、何かを信じることなくして生きられない。だが何をどう信じようと、いかに誠心をもって信仰を紡ごうとも、過ちや躓きなくしてありえない。なぜなら、それこそがひとのいとなみにほかならないから。ひとは信じるほどに、信じるがゆえに過ち、躓く。だからこその「信じること」であり、「信仰」なのである。この背理にはかなたがある。かなたがあってこその「信じること」であり「信仰」なのだ。誤解してはなるまい。かなたを「信仰」することではない。「信仰」のかなたなのだ。しかし、この誤解は避けることができない。
ここで私は、ある人物が二十五年以上も前に残したことばを思い起こさずにはおれない。
例えばここにだよ、Aさんという人がいたと。いいですか。このAさんは生まれて今まで功徳を積んでいたので、このままだと天界へ生まれ変わりますと。(中略)ところが、このAさんには慢が生じてきて、このあと、悪業を積み、そして寿命尽きるころには、地獄に落ちるほどの悪業を積んで死んでしまうだろうと。(中略)このAさんを、ここに成就者がいたとして、殺したと。この人はどこへ生まれ変わりますか。天界に生まれ変わる、そのとおりだね。(中略)このときに殺した成就者は何のカルマを積んだことになりますか。すべてを知っていて、生かしておくと悪業を積み、地獄へ落ちてしまうと。ここで例えば、生命を絶たせた方がいいんだと考え、ポアさせたと。(中略)客観的に見るならば、これは殺生です。客観というのは人間的な客観的な見方をするならば。しかし、ヴァジラヤーナの考え方が背景にあるならば、これは立派なポアです。*5
いまなお少しも色あせないほどに普遍的な主張とみなさなくては、その本質を正確な深度で見積もったことになるまい。植松という男は、一九九五年三月二〇日、地下鉄サリン事件を実行したオウム真理教の主宰者・麻原彰晃の直系の弟子である。さて、わたしたちはかれらと無縁だときっぱり言い切れるだろうか。私が問うているのは、このことなのだ。
*1 篠田博之「翌朝小指は噛みちぎった――相模原事件・植松聖被告が面会室で語った驚くべき話」、YAHOO!JAPANニュース、二〇二〇年一月八日記事
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20200114-00158929
*2 TBS 「報道特集」二〇二〇年三月二一日放送
*3 同右
*4 「イザヤ書」六四-五、『聖書』、フェデリコ・バルバロ訳、講談社
*5 島田裕巳『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』一六六~一六七頁(トランスビュー、二〇〇一)
(第04回 了)
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