岡野隆さんの『句誌時評』『2018年03、04月号』をアップしましたぁ。『特集「賑やかな高齢者俳句」(03月号)』、『特集「俳句はなぜ〝旧かな〟なのか?」(04月号)』を取り上げておられます。
俳句の世界で〝俳句を文学として論じようとした俳句純文学的雑誌(句誌)〟が、ことごとく商業的に失敗し廃刊に追い込まれてきたのは衆知の通りです。同じような試みを今始めても、過去と同様に間違いなく失敗するでしょうね。平明な俳句創作ノウハウと投稿を中心にしなければ句誌は立ちゆかない。俳句を文学と考えるいわば高い志を持っている作家たちは不満でしょうが、まーしょうがない。そう簡単に現実は変えられません。
ただま、もそっと現実を正確に認識した方がいいと思うんですね。俳句は文学であると同時に生きがいとしての趣味であり、習い事芸として、句会や吟行や結社大会などで行われている楽しいサークル的人間交流の場です。文学としての俳句という面より、後者の習い事お遊びサークルとしての役割の方が圧倒的に大きい。俳句世界の経済もまた圧倒的に後者に依存しています。句会の後の飲み会を楽しみにしている俳人の方が多いんぢゃないかな(笑)。それがわかっていながら上から下まで〝俳句は小説や自由詩などとまったく同質の現代文学だ〟などと強弁しても仕方がない。
俳句の性格は江戸時代から変わっていません。そうであるからこそ俳句は今に至るまで社会で一定の力を得てきたのです。近頃は結社に所属しない俳人が増えていますが、その大きな目標の一つに雑誌や新聞の俳句欄選者になることがあるんぢゃなかろか。俳句は文学だとインディペンデントを標榜しながら、俳句界が築きき上げてきた富のリソースはちゃっかりもらおうとしている。どこまで行っても俗。俗にまみれるなら、結社などで門弟らの指導に日々労力を割き、苦労している俳人から不満が出そうですね(笑)。
俳句界の現状を考えれば雑誌に創作ノウハウと投稿は必須です。ただこればっかりやってるとマンネリになり、じょじょに衰退してゆきます。かといって小難しい批評はごく普通の俳句愛好者には届かない。俳句でデリダなどを持ち出してもムダ、というより噴飯ものですよね。一種の知恵熱であり、大声で『俺(わたし)はバカぢゃない』と叫んでるのと変わらない。古典文学である俳句では現代的な知を牽強付会に〝取り合わせる〟ことはできません。
ただ俳句の世界はもの凄く沢山の優れたリソースを持っています。芭蕉から現代に至るまで数々の優れた俳人を輩出しました。それぞれが俳句でも理論でも、少しずつ優れた仕事を残しています。そういったリソースを俳人たちは上手く活用できていないように思います。
雑誌というものは、句誌であればもちろん作品を掲載するわけですが、それを顔としながら実質的なメインコンテンツは評論・エセーになります。いわゆるジャーナリズムは評論・エセーの優れた書き手がいなければ機能しません。
この評論・エセーが、俳句界ではメインストリームである俳句創作ノウハウと投稿選の感性に飲み込まれてしまっているんですね。書き手が読者は創作ノウハウと、それを活用して作品を書いて投稿で作品が選ばれることにしか興味を持っていない、という感性に染まってしまっている。これでは面白い評論もエセーも生まれない。
創作ノウハウというものは、膨大な知識からじょじょに深みを増してゆくものです。明日役に立つノウハウは明日賞味期限が切れるノウハウでもあります。いっけんムダなように見えても楽しく読むうちに糧になっているような、文章として独立しており、しかも面白い批評やエッセイを書くことがノウハウ重視の句誌を変えてゆく第一歩でしょうね。メディアに書く作家は俳壇の上に立つ作家ですが、高みの質をもっと考えないと。
■ 岡野隆『句誌時評』『No.098 特集「賑やかな高齢者俳句」(月刊俳句界 2018年03月号)』 ■
■ 岡野隆『句誌時評』『No.099 特集「俳句はなぜ〝旧かな〟なのか?」(月刊俳句界 2018年04月号)』 ■
■ 第6、7回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
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