今号では「賑やかな高齢者俳句」の特集が組まれていて、巻末に「人口減少・高齢化と結社」の小特集もある。六十五歳停年が進んでいるが、今の六十代は若々しい。その多くが八十代、九十代まで生きるわけだから、仕事だけではなく生きがいを得るのも大事なことだ。
だからこそ句誌の多くは、俳句は気軽で楽しい表現なので、停年などで時間ができたら是非俳句をおやんなさい、できれば結社にお入りなさいと勧誘してきた。実際、自由詩では読者も創作者も激減しているけど、俳句人口は短歌と同様、横ばいか微減だと思う。しかし結社に入る人はそれほど増えていない。高齢化だが人口減少が結社人口の低迷をもたらしているのだろうか。はたまた社会の大きな変化が影響しているのだろうか。
もちろん新世代は、結社意識が薄い。最近は若い世代のネットでの表現や同人誌での活躍が目立つ。(中略)だが、裾野の広い無名の俳句愛好者によって支えられている俳句文芸にとって、俳誌は俳句そのものを支え、維持する装置として存在し続けると思われる。結社・俳誌と同人誌とネットとの共存こそが、大衆に開かれた文芸である俳句を広く繁栄させることになるのだろう。
(酒井佐忠「高齢化と会員減少~「内なる成熟」を求めて」)
歴史ある結社誌の終刊や、俳人協会、現代俳句協会の会員数の減少を憂う酒井さんの文章を読むのはこれが初めてではない。「俳句界」だったかは忘れてしまったが、同様の趣旨の文章を以前にも書いておられたと思う。ただどうもピリッとしない。酒井さんは優れた俳句批評家だが、結社人口の減少は俳句理念と現実俳壇ジャーナリズム双方に深く関わっている。意外と物言いにくいテーマなのだ。
俳句という表現ジャンルの特性からいって、人口が減少しようが俳句創作人口が激減することはまずない。だから結社や俳人協会、現代俳句協会会員数の減少は俳句人口の減少と連動していない。日本の人口がいきなり半分に減ってしまうことはないわけだから、必ずその数パーセントを占める俳句愛好者人口は常にかなりの数になる。ただその多くの人が結社や協会に入会することに魅力を感じなくなっている。俳句愛好者にはある程度生活が安定している中高年が多いわけだが、にも関わらず結社・協会会員共に増えないのである。
俳壇について考えてみよう。俳壇、歌壇、文壇、詩壇と言うときの〝壇〟とは何かということである。理念として言えば、〝壇〟とは各時代を代表する創作者集団が若手からベテランに至るまでの作品を公平に見渡し、一定の作品評価基準を提示しながら優れた作品を顕彰してジャンルを盛り上げてゆくためのものである。
俳壇ではこの作品評価パラダイムである〝理念的・壇〟が、うまく機能してこなかった面があるのは否めない。ストレートに言えば、大結社に所属し主宰や編集人になるのが俳壇的出世の近道であった。今でもまだそうだ。評価基準も内向きで、「わたしのところの結社では優れた作品だから俳句として優れている」といった評価がまかり通ってきた。ただそれなりに特徴のある結社がせめぎ合ってきたから、最低限度のバリエーションが保たれてきた。それが無くなりつつある。またこの俳壇の性格は、すでにして理念から現実俳壇システムに足を突っ込んでいる。
〝壇〟は理念だけでは人を惹き付けられない。現実利益が必要だ。当たり前のことである。創作者はすべからく自己主張が強く自分の作品を評価してもらいたい。それを吸いあげるシステムとして結社があり、商業句誌があり、俳壇の各種の賞がある。もっと俗な言い方をすれば、名前が売れた俳人になって原稿料を稼ぎ、自費出版ではなく企画で句集を出してもらい、句誌よりも稿料が高く仕事の幅が広がる一般誌(紙)の著者になりたいと願うのは自然な成り行きである。
この俳壇出世システムが変わり始めているのが結社や協会人口の減少の大きな原因だろう。結社で主宰を頂点とする年長俳人に頭を抑えられなくても、ネットなどで目立った活動をし、思いきり自己主張すればそれなりのポジションを得られるようになっている。またネットを介した情報公開によって、初心者や中堅だろうと膨大な過去リソースを簡単に入手できるようになった。結社や協会といった集団は、多かれ少なかれ知やノウハウの〝囲い込み〟によって特権的位置を保持して来た面がある。そこに所属しなければ学べない、知り得ないものがあったのだ。それが失われている。
では従来の結社・協会頭飛び越しの俳壇出世コースが、昔の俳壇システムに比べてコモンセンスの高いものになっているかというと、そうは言えない。むしろ混乱している。ほかのジャンルと同じように、声の大きな者、とりあえず目立つ者が中心に立ち始めている傾向があるのは否めない。ミーイズムの時代になっていると言っていい。他者のリソースを利用して自分は利を得ても、俳句全体のことを考え行動するパブリックな使命感は昔より希薄だ。俳壇では結社も同人誌も似たようなもので、骨惜しみしない主宰格がいないと機能しない。そんなムダ働きを嫌う傾向が若手には強い。
商業句誌が大結社の広告や、句集の自費出版でその経済を支えているのは衆知のことである。法外な自費出版代を請求するのは俳壇で有名な版元ではなく、わけのわからない自費出版屋だと言うことは言い添えておきたい。長い歴史を持つ商業句誌の価格設定はそれなりにリーズナブルでコモンセンスがある。
この商業句誌の努力が、様々な問題を抱えているにせよ、俳壇を底支えしてきた。しかしミーイズム的出世コースに走る俳人たちは、結社を基盤(収入源でもある)とした商業句誌は当然存続するもの、それは利用するけれど、自分はおいしいところだけをもらいたい、という姿勢になりつつある。この姿勢が俳人の大半を占めるようになれば結社も協会も間違いなく衰退する。今後ますます〝目立つ〟若手俳人の言動に倣う者が増えるだろうから、かなり危機的なところまで結社や協会は追いつめられるだろう。
ただそれは、単にネット社会の特性でもなければ、ミーイズムに染まった若手作家たちのせいでもない。中堅から大家と呼ばれる俳人たちの力の衰退でもある。時代の変化を超える強い力を発散できないから結社や協会人口が増えないのだと自己省察しなければ、何も始まらない。
俳壇は他の文学ジャンルと比べて、どう見ても息苦しい。五七五に季語定型でなければ俳句ではないという主張が抑圧的に働き、その中で微細な差異を争ってきた面がある。そして微細な差異を後生大事に守る俳人たちの句にも俳論にも強い魅力がない。ツケが回ってきたのだ。若手の結社・協会頭飛び越し姿勢はミーイズムにならざるを得ないが、俳壇の息苦しさに我慢ならないという反発でもある。
俳句は若い時代の詩心に溢れた作句でも、中年時代の自分らしい落着いた実生活での体験に溢れた作句も可能である。更に高年齢になった時でも、若い時代には観念的にしか理解できなかったことや、高年齢の人間としての日常生活で体験することを詠えば良い。それは今日まで人間がごく稀にしか体験しなかった境地であり、俳句はそれを表現する上で適切である。短く、主題も自然やその自然と共生する喜びを詠えば良いのだから、高年齢の人々がその実力を発揮し易いのである。
(有馬朗人 特集「賑やかな高齢者俳句」巻頭エッセイ)
有馬さんの書いておられる〝高齢者俳句ノススメ〟はなるほどごもっともである。ただ一方で強い違和感も覚える。こういった初心者誘導を俳人と俳壇は繰り返してきた。ただ有馬さんのおっしゃる高齢者俳句ノススメを受け入れても、結社所属員や協会員は増えないと思う。
ストレートな言い方になるが、俳句は書けばいいというものではない。なんとしてでも優れた俳句を書く必要がある。もっと言えば文学としての要件を備えた作品を、どんな苦労をしても生み出さなければならない。高齢になって若い頃の観念的自己を省察して様々に句を変化させてゆくのは、強い圧をかけて優れた作品を生み出そうとした試行錯誤の後のことである。俳句は簡単で楽しいという甘やかしの言説は、俳句人口を増やすための、若手とは別のミーイズム的迎合主義である。
中堅大家俳人の結社が衰退し、若手俳人のミーイズムが目立って見えるのは、俳壇、というより文学としての俳句の世界に軸がないからである。複数の優れた俳人が、魅力ある作品と俳論で俳句の世界活性化させれば俳句は自ずからコモンセンスを得られる。乱暴な言い方だが、目立って見えても若手俳人に明らかに突出した才能を感じさせる作家はいない。現代を捉え未来へと伸びる俳句ヴィジョンがない。一方で中堅以降で伸びしろを感じさせる大家も見当たらない。現状維持に汲々としている。若手にも中堅大家俳人にも当面苦しい状況は続く。ただ現状の苦しさは、今の閉塞した俳壇を多少でも変えるために必要だと思う。
岡野隆
■ 金魚屋の本 ■