谷輪洋一さんの文芸誌時評『文芸5誌』『No.099 群像 2017年02月号』をアップしましたぁ。若松英輔さんの『「たましいを旅するひとー河合隼雄』を取り上げておられます。谷輪さんは『何やら言葉にできない異和感を覚えた。(中略)それは一言でいえば「これって文学なんだろうか」という疑問に尽きる。自分は若輩者の部類ではあるし、こういう場合には若輩者こそ「何が文学かなんて人それぞれじゃーん」で済まそうとする。ただ、自分たち以外の年配者が「人それぞれじゃーん」と開き直っているみたいだと、とてつもない異和感を覚える。勝手な話だが、規範となるべきものに自分たち同様の恣意性があるのは若輩者として認められない』と批評しておられます。
ん~困った(爆)。詳しくはコンテンツをお読みいただければと思いますが、んーんー、まあはっきり言ってしまえば石川も若松さんの批評のレベルは決して高くないと思います。若松さんは三田文学新人賞を受賞され、三田文学の編集長となり、そのあたりから純文学系の文芸誌にも精力的にお書きになるようになりました。誰がどっから現れようといっこうに構わないわけですが、露出度が高くなれば批評的な目が注がれるようになるのは世の習いです。力のある作家ならみんな納得します。若松さんは井筒俊彦全集をまとめあげたという大功績があるわけですが、んーんー井筒哲学、ちゃんと理解しておられるのかなぁ。編集手腕が文筆能力とイコールで評価されるわけではないのは言うまでもないことです。
どんな世界にもしがらみはあります。文学金魚にだってあるんです。だけどそんなしがらみを、読者にある程度わかるように表現してゆくのが、文学の世界で公器的役割を果たす文芸誌の基本スタンスだと思います。インサイダーの論理でメディアが動き始めると、必ず衰退して堕落します。
文芸誌にはたまーに批評が載りますが、概してそのレベルは低い。批評家は作家よりも高い読解能力を備えていなければならないのです。はっきり言えば作家以下。もちろん、批評を読んでも何の役にも立たないから、作家は文芸批評を読まなくなり、さらに文芸批評が掲載される頻度が低くなるといふ悪循環が生まれています。そのじり貧で狭い椅子に批評を載せる場合は、読者になるほどと思わせなければさらなる悪循環が生じるだけです。
■ 谷輪洋一 文芸誌時評『文芸5誌』『No.099 群像 2017年02月号』 ■
■ 第04回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
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