若松英輔の「たましいを旅するひとー河合隼雄」に何やら言葉にできない異和感を覚えた。いや、これから言葉にするわけだし、その評論に対しての異和感というより前々から感じていたことがたまたま顕在化した、ということに他ならない。それは一言でいえば「これって文学なんだろうか」という疑問に尽きる。
自分は若輩者の部類ではあるし、こういう場合には若輩者こそ「何が文学かなんて人それぞれじゃーん」で済まそうとする。ただ、自分たち以外の年配者が「人それぞれじゃーん」と開き直っているみたいだと、とてつもない異和感を覚える。勝手な話だが、規範となるべきものに自分たち同様の恣意性があるのは若輩者として認められない。
この若松英輔の文章が、しかし文学として書かれたのではない、というなら別に何も思わない。それこそ人の勝手じゃーん、だ。ただ若輩者としても、文学とは何か、それなりに仕込まれた記憶があるので、それが「文学ふう」の顔つきをしているのは気になる。文学とは「学」である以上、やはり学問=サイエンスであり、厳密な思考を必要とする。大人たるもの、その規範を恣意的に曲げないでほしい。
文学とその定義を真剣に捉えようとしたことがある者が、河合隼雄の「たましい」に引っかかる、というのがまず考えにくい。河合隼雄は立派な心理学者かもしれないが、その特権として文学的なるものを実に恣意的に、まあロマンチックに援用した。「たましい」という概念を文学として扱ってはならないことはないが、河合氏も、もちろん若松氏も、その手つきに慎重さが欠けている。
慎重さ、というのはすなわち “ 畏れ ” だと思う。文学に対しての、またその「たましい」そのものに対しての。むしろ「たましい」と言いだせばまず文学的だろう、あるいは文学が黙らざるを得ないルートに通じているはず、とでもいうような。文学者として素人の河合隼雄はともかく、もし文学プロパーとしてそこへ乗っかろうとするなら、きわめて鈍い、もしくは狡い、と言わざるを得ない。
さて、では若松氏は文学プロパーなのか、それにも疑念があるのだから、非難するにはあたらないのかもしれない。若松英輔氏は三田文学という大学雑誌の編集長を務めていたが、そうなった経緯は三田文学の外の者が知るよしもない。そのちょっと前に三田文学の新人賞を受賞しているが、新人賞がその雑誌の編集長をリクルートする手段だったという例は、このとき以外に聞いたことがない。
三田文学の事情はインサイダーのもので、読者ごときに開示する必要はない、というなら、各文芸誌同士の取引きもまた、そんなものだろう。若松英輔氏がどういう立場で、厳密さのない文学とも哲学とも宗教的言説ともつかないものを発表し続けているのか、きっと読者ごときが関知することではないのだろう。
出版不況でなりふり構わなくなってからというもの、出版業界はサラリーマンたちが生活のため、可能な限りの汁を回収するための場となった。文壇もその公器も編集者の利権であり、定年後の編集長が匿名の「物書き」と化して編集後記を書き続けるという奇怪な光景までみえると聞いた。書き手の「たましい」も安く売られて不思議ではない。
谷輪洋一
■ 若松英輔さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■