谷輪洋一さんの文芸誌時評『No.008 小説現代2015年04月号』をアップしましたぁ。戦後70年といふことで、戦争の匂いのするコンテンツが掲載されており、それを取り上げておられます。乃南アサさんの「ビジュアル年表 台湾統治五十年」などですね。ただま、谷輪さんの興味は史実と小説フィクションの関係にあるやうです。
谷輪さんは、作家は「状況や時代に影響を受けることはあっても、それは物語の舞台やディテールに表れるに過ぎない。多くの作家は、それに影響を受けた振りをしている。振り、と言うと異論があるかもしれないが、個々の作家が抱えているテーマは本質的には、外部の状況と関わりがないはずである」と書いておられます。では史実をどう捉えるのか。
谷輪さんは「あらゆる歴史はフィクションであり得る。あらゆる解釈は事実と異なる。しかし事実とは何なのか。事実というのは、すなわちフィクションをフィクション足らしめる何かとして措定し得る、別のフィクショナルな大きな幻想に過ぎないかもしれない。つまりは歴史とは自省として、我々の内にあるだけなのだろう。それを歴史と認めるのも、単なる古い資料と見做すのも我々次第である」と批評しておられます。
最近になってうっすらとですが、メタ戦後小説といった作品が書かれ始めています。史実、つまり歴史は静的なものではなく、その解釈は時代ごとに変わってゆくのですね。谷輪さんが「歴史とは自省として、我々の内にあるだけなのだろう」と書いておられる通りです。では現在の歴史解釈はどのようなものになるのか。
乱暴に言えば、現在の歴史解釈は揺らいでいます。一定方向に帰結を見出すことができないでいる。小説家を含めた文学者が社会全体の雰囲気、思想を反映する作品を書くことができなくなっている理由がそこにあります。でも意欲的作家にとってはチャンスの時期でもあるはずです。不肖・石川、現在、戦後は本当の意味で総括されやうとしていると感じます。この時代状況を作品として表現することができれば、その作家は戦後文学の最終ランナーになれるでせうね。
■ 谷輪洋一 文芸誌時評 『No.008 小説現代2015年04月号』 ■