戦後70周年だそうである。季節としては外れているのだが、戦後の匂いのするコンテンツがいくつかある。ジャーナルとしての戦後ではないので、そんなものでいいのではないか、とも思う。フィクションにとって戦後という呼び名は、究極的には時間軸上の範囲でしかない。
それはフィクションが、個の内部で醸造されるものであるからに他ならない。状況や時代に影響を受けることはあっても、それは物語の舞台やディテールに表れるに過ぎない。多くの作家は、それに影響を受けた振りをしている。振り、と言うと異論があるかもしれないが、個々の作家が抱えているテーマは本質的には、外部の状況と関わりがないはずである。
そこからまた、小説誌のジャーナルというものの矛盾ということにもなる。しかし、それよりは外的状況によって季節の移り変わりのように示される「小説的なるもの」が、実際には著者にも、そしてその著者の読者たちにもなんら関わっていないことを示唆する、というかたちで逆説的に「作品とはどういうものか」を提示することの方が興味深い。
だから乃南アサの「ビジュアル年表 台湾統治五十年」という作家の手になるそれの意図や狙いはともかく、確かにある効果や感慨をもたらされるのは、歴史を振り返るべきときというジャーナルにおいてでも、歴史そのものにおいてでもなくて、それとフィクションとの関係においてである。
つまり我々は、そこにある「ビジュアル年表」なるものを史実として捉える準備ができている、ということだ。もちろん知性のある大人としては、とりわけ各国の歴史観が取り沙汰されている今日、何事も絶対視することはない。しかしこれが中国でも韓国でもない、ごく友好的な台湾の統治についてという点で、我々は存分に油断し、そのビジュアルを動かし難いものに捉えたく思う。
ただ、それがいわゆるジャーナリズムではない、小説現代というフィクションを集めた雑誌だ、というところでのみ立ち止まるのだ。そこにある意図はしかし、それほど鋭くパロディ化されたものであるはずがない、というところまで瞬時に伝わってくるのだが。
そしてそれが小説家の手になること。それ自体に意味はなくて、ただ我々が考え、思い当たるだけだ。あらゆる歴史はフィクションであり得る。あらゆる解釈は事実と異なる。しかし事実とは何なのか。事実というのは、すなわちフィクションをフィクション足らしめる何かとして措定し得る、別のフィクショナルな大きな幻想に過ぎないかもしれない。
つまりは歴史とは自省として、我々の内にあるだけなのだろう。それを歴史と認めるのも、単なる古い資料と見做すのも我々次第である。「歴史的価値」は瞬きひとつで出現したり、見失われたりする。それは美意識が働かないという意味では、文学的価値よりもっとあやふやなものなのだ。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■