ラモーナ・ツァラヌさんの『青い目で観る日本伝統芸能』『No.017 めでたい夢で新春を迎える ― 特別公演「初夢とともに」』をアップしましたぁ。1月10日に国立能楽堂で開催された特別公演を取り上げておられます。能楽は正式に上演すると一日がかりになってしまひますが、現在では新春特別公演のやうに、能二曲の間に狂言をはさむといふのが一般的なやうです。
ラモーナさんは、能『富士山』について、「写本の中で一番古い1491年の金春禅鳳自筆本では、富士山の山神が「楽」を舞うべきだという演出表記がある。しかし禅鳳より半世紀ぐらい前の時代には、〈富士山〉の後シテである山神は、「楽」を舞うのではなく「舞働」(まいばたらき)をしていた可能性が指摘されている。・・・荒神の激しい舞働に対して、楽は気高い異国風の舞で、ゆっくりとしたテンポから徐々に速くなる舞方である。金春禅鳳は・・・舞働の代わりに楽を入れることで、この曲により現代的で、面白い工夫を取り入れようとしたのだろう」と書いておられます。
能は室町時代には可変的な芸術であったといふことになります。それが江戸初期に能から歌舞伎といった大衆芸術が発生し、じょじょに現在のように固定化した形式に変わってゆく。中世室町時代に和歌から俳諧が発生し、和歌は貴族のものとして秘儀と伝承の芸術になり、俳諧は庶民の楽しみとして、形式は守りつつも様々な試みが為される芸術となったのと似ていますね。能・歌舞伎、和歌・俳諧を固定化し独立した芸術として見ると相互影響は薄いものになってしひますが、大きな流れで捉えると、そこにはある芸術の生と死、古典と現代が同居しているやうに思ひます
それを明らかにするためには、やっぱり地道な探究が必要でせうね。ラモーナさんは「この度は金春流の〈富士山〉と宝生流の〈野守〉が観られた。・・・流派によって謡や舞方には違いがあり、そこに気付いた上でそれぞれの魅力を味わうことは新鮮な感覚を生み出す」と論じておられます。このやうな繊細な〝感覚〟は、能と歌舞伎、和歌と俳諧を比較検討し、総合的に捉える際にも重要なのではなひかと思ひますぅ。
■ ラモーナ・ツァラヌ 『青い目で観る日本伝統芸能』『No.017 めでたい夢で新春を迎える ― 特別公演「初夢とともに」』 ■