【公演情報】
会場 国立能楽堂
鑑賞日 1月10日
演目 能〈富士山〉、狂言〈茄子〉、能〈野守〉
出演 能〈富士山〉
前シテ(海女)/ 後シテ(富士山の山神)金春 安明
前ツレ(海女)政木 哲司 前ツレ(海女)中村 昌弘 後ツレ(かくや姫)金春 憲和
ワキ(昭明王の臣下)福王 和幸 ワキツレ(従者)村瀬 提 ワキツレ(従者)村瀬 慧
アイ(末社の神)井上 松次郎
笛 杉 市和 小鼓 幸 正昭
大鼓 山本 哲也 太鼓 三島 元太郎
後見 高橋 忍 辻井 八郎
地謡 中村 一路 山中 一馬 本田 芳樹 本田 光洋
本田 布由樹 吉場 廣明 荻野 将盛 山井 綱雄
復曲狂言〈茄子〉(なすび)
シテ(新発意) 野村 又三郎
アド(住持) 松田 高義 アド(新発意)奥津 健太郎
能〈野守 黒頭〉
前シテ(野守の翁)/ 後シテ(鬼神)武田 孝史
ワキ(山伏)宝生欣哉 アイ(所の者)佐藤 融
笛 一噌庸二 小鼓 吉阪 一郎
大鼓 佃 良勝 太鼓 観世 元伯
後見 宝生 和英 和久 荘太郎 東川 尚史
地謡 藪 克徳 金森 秀祥 佐野 玄宜 大坪 喜美雄
亀井 雄二 朝倉 俊樹 小倉 伸二郎 小倉 健太郎
富士山、鷹、そして茄子を夢の中で見るのは、とてもめでたいことの前兆だと二三ヶ月前知人が教えてくれた。国立能楽堂の特別公演「初夢とともに」はまさにこの夢見の最瑞祥をベースにして構成された。能〈富士山〉では、富士山が背景となり、祝賀に満ちるかぐや姫と山の神による舞が演目の中心となる。狂言〈茄子〉では、お寺に新しく入った見習いの僧たちと、主僧の間に起こる茄子をめぐる争いがテーマになる。鷹が出現する能といえば、すぐに思い浮かぶのは〈野守〉である。野守の鏡という池に映った鷹がこの演目では重要なモチーフになっているからである。以下でそれぞれの演目をもう少し詳しく紹介したい。
〈富士山〉は能楽の大成者である世阿弥(1363‐1443)が生きた時代の能だが、江戸時代初期からしばらく演じられなくなった。天保年間に金春流の演目として資料に記録されており、現在は金春流と金剛流の現行演目である。
この能の前半では、唐の勅使(ワキ)が不老不死の薬を求めて日本の富士山を訪れた時に、田子の浦に住む海女が彼に富士山にまつわる謂れを伝える。海女の物語によると、大昔の天皇がかぐや姫にもらった不老不死の薬をこの山で焼いた煙が、富士山の煙そのものであるらしい。それに勅使が訪れた時期が水無月、つまり真夏なのに、富士山の高嶺は雪に覆われている。そのためこの山は「時しらぬ山」として和歌で詠まれ、つまり老いることを知らない仙人たちが住む山とされる。最後に海女は、自分こそが浅間大菩薩の化身だとほのめかし、雲に包まれて姿を消す。
後半では富士山の山神である日の御子(シテ)と浅間大菩薩かぐや姫(ツレ)が、ワキの目の当たりに出現する。かぐや姫は両手に持っている不老不死の薬壷を唐の勅使に与えてから、穏やかで優雅な天女の舞を舞う。その後、不死の薬を手に入れた勅使の喜びを祝うために日の御子も祝賀に溢れた楽(がく)という舞を舞い、めでたい雰囲気でこの演目は終わる。
〈富士山〉では後半の演出に面白い点がある。「楽」という舞は、特に唐人の主人公によって舞われることが多い。日本の山である富士山の山神がどうして異国情緒を漂わせる「楽」を舞うのか?この問題に答えるためには、〈富士山〉の上演歴史を遡る必要がある。
現存する〈富士山〉の写本の中で一番古い1491年の金春禅鳳自筆本では、富士山の山神が「楽」を舞うべきだという演出表記がある。しかし禅鳳より半世紀ぐらい前の時代には、〈富士山〉の後シテである山神は、「楽」を舞うのではなく「舞働」(まいばたらき)をしていた可能性が指摘されている。舞働は勢威を示して激しく立ち働く竜神、鬼や天狗のような登場人物に特徴的な所作ごとである。荒神の激しい舞働に対して、楽は気高い異国風の舞で、ゆっくりとしたテンポから徐々に速くなる舞方である。金春禅鳳は〈富士山〉の原形にあった舞働の代わりに楽を入れることで、この曲により現代的で、面白い工夫を取り入れようとしたのだろう。
能〈富士山〉の最古写本である金春禅鳳自筆本
(1491年写、生駒山宝山寺、 奈良女子大学学術情報センター蔵)
また上演中に富士山がインドから飛来した山だという古い謂れが言及されることも、山神が楽を舞うことにいかにも都合のいい設定を作り出している。それによって日本の象徴的な山の神が、異国風の舞を舞うことに関する違和感が少し薄れるのだ。この場合に見られるように、特に室町初中期では能の演目は変貌し続け、常に改訂され続けた。それは演目の新鮮味と当時の観客にアピールする現代性を保つためだったと考えられる。
〈富士山〉の次の演目だった〈茄子〉は、野村又三郎家に伝わる復曲狂言である。主僧の留守の間、見習いの僧達が寺畑の茄子を盗んで、焼きたての茄子を肴に酒盛りをする。彼らが茄子を美味しく食べ、楽しさゆえの舞を披露しているのを寺に帰った主僧に見られる場面がこの狂言の見どころである。
最後の演目として演じられた〈野守〉は世阿弥が作った能で、凝った作品だ。内容は修行中の山伏が大和国の春日野に辿り着き、そこで出会った翁が春日野にある「野守の鏡」という池の謂れを山伏に教える。昔鷹狩りに出かけた帝が大切にしていた鷹が見つからなくなった時に、春日野の野守の翁が、木枝に隠れていた鷹が池の水鏡に映ったのを見て、鷹が見つかったという故事のことである。しかし真の「野守の鏡」は野中の塚を宿にしている鬼が持つ鏡のことだと言い添えて、翁は姿を消す。
後場では、山伏の目の前に円形の鏡を持った鬼が現れる。その鏡は地獄の有様を含めて、宇宙の全てを映し出す。この不思議な鏡の威徳を山伏に見せてから、鬼は地獄に帰る。鬼神の激しくて印象的な所作を見どころとしながら、和歌文学に深く根付いている〈野守〉の趣向は、新春公演のいい締めくくりだった。
一富士二鷹三茄子は長寿、出世、そして繁栄への祈りである。このような祈りを込めた演目揃いを軸にして新年の能公演を企画するのは、傑出した発想だったと思う。鑑賞に来場した観客は初夢に富士山や鷹、茄子を見なくても、この演目を見ることで縁起の良い心持ちにいたることができる。
その上この度は金春流の〈富士山〉と宝生流の〈野守〉が観られた。二つの流派による能を同じ舞台で観ることができたことも、この特別公演のもう一つの利点として注目したい。流派によって謡や舞方には違いがあり、そこに気付いた上でそれぞれの魅力を味わうことは新鮮な感覚を生み出す。現在は一つの流派による公演が主流だが、二つ以上の流派が力を合わせて一つの公演を作る形式も、観客に多様性の楽しみを与えるだろう。このような公演がより多く行われるのが望ましいと思う。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■