ラモーナ・ツァラヌさんの『青い目で観る日本伝統芸能』『No.015 実験的な精神を貫く伝統―『能楽空間と舞踊と一中節』』をアップしましたぁ。今月2日に東京青山の銕仙会能楽研究所で行われた一中節(いっちゅうぶし)『天の網島』と『都見物左衛門』の公演を取り上げておられます。一中節は浄瑠璃の一種ですが、今回の公演はそれに日本舞踊を加え、能舞台で上演するといふ意欲的な試みです。簡単なようでなかなかハードルが高ひと申しますか、一つ間違えると奇妙な試みになってしまひかねない舞台であります。
ラモーナさんは、『現代演劇と伝統芸能はもちろん、各伝統芸能の間にも見えない壁のようなものが存在している。それは各芸能の基盤には、動かしがたいアイデンティティのようなものがあるからである。私たち現代人の芸術的思想は万能ではないことを示しているのは、古典芸能と現代の舞台芸術の交流を困難にするその壁である。ただそれに揺さぶりをかけることは、現代芸術、伝統芸能の新たな可能性を見出すことにつながる』と批評しておられます。一中節と日本舞踊の組合わせはもちろん、能舞台で上演する際にも、それぞれの特徴を踏まえて行わなければならなひのです。
各芸術ジャンルの掟は簡単に乗り越えられるようで、その敷居がなかなか高いものです。たとえば短歌と俳句は14文字違うだけなのに、全く異なる言語芸術になっています。それは他のジャンル間でも同じです。とっても言いにくいですが、本職の小説家に比肩する作品を書いた詩人、またその逆も今のところ存在しないと思います。結局のところ作家はその〝本業〟に縛られる。他ジャンルでの試みは、詩人や小説家のそれなりによくできた余技として大目に見られているところがあります。
この敷居を乗り越えるためには、もの凄く勘のいい作家が出現するか、それぞれのジャンルの掟を考え抜くしかありません。で、素晴らしく勘のいい作家は現在に至るまで出現していないので、現実問題としては考え抜くしかないでせうね。〝考える〟といふと、抵抗を感じてしまふ作家がけっこう多いです。現実の事件に取材しない詩人さんなどは、〝創作は天から降ってくる聖なるインスピレーションだよ〟などと言い出しかねなひところがある。要は勘頼みといふことで、そりでは振り出しに戻ってしまふ(爆)。
本気であるジャンルの創作に取り組めば、作家はなにも考えなくてもある程度の成果を上げることができます。茫漠としたものであれ、一つのジャンルについては、あるヴィジョンをつかめばなんとなくその掟を体得できるわけです。〝考える〟といふのはそれをちょっとだけ進めるといふことです。自らが取り組むジャンルの掟を明確にできなければ、他ジャンルの掟は把握できません。ジャンル横断的創作は、本質的には一点突破的な思考を核にしなければ難しいのではないかと思います。
ラモーナさんは今回の公演の『天の網島』について、『冒頭で能舞台の橋掛りをわたって登場する二人の姿には、悲しい運命の予兆を読み取ることができた。この作品の振り付けを手がけた出演者二人は、「幽霊劇」である能楽という芸の独特な要素を活かし、『天の網島』の登場人物たちを夢に出て来る幽霊として演出した』と批評しておられます。感覚的なヴィジョンと理性的判断が、ジャンル横断的な表現をスマートなものにしているのではなひかと思います。
■ ラモーナ・ツァラヌ 『青い目で観る日本伝統芸能』『No.015 実験的な精神を貫く伝統―『能楽空間と舞踊と一中節』』 ■