【公演情報】
演目 一中節『天の網島』
一中節『都見物左衛門』
会場 銕仙会能楽研究所
鑑賞日 11月2日
出演 『天の網島』 紀伊國屋小春 坂東扇菊
紙屋治兵衛 西川扇与一
『都見物左衛門』 坂東勝友 坂東扇菊
演奏 都了中 都一桜
主宰 NPO法人舞台21
今月の初めに銕仙会で行われた公演『能楽空間と舞踊と一中節』は、浄瑠璃の一つである一中節の代表的な二曲に、日本舞踊の振付が加えられた形の新しい作品の発表だった。音楽である一中節と、身体的な動きを軸にする舞踊と、能舞台の空間といった三つの要素の出会いを目指したこの公演には、それぞれ独特の心を持つ三種類の芸能を同時に働かせるという実験的な発想があった。
『天の網島』は近松門左衛門作の『心中天の網島』に基づいて作られた一中節の曲である。三味線の音楽に合わせて紙屋治兵衛と小春の悲恋が歌い語られ、その物語が二人を演じる西川扇与一と坂東扇菊氏の舞踊によって華麗な形で視覚化された。冒頭で能舞台の橋掛りをわたって登場する二人の姿には、悲しい運命の予兆を読み取ることができた。この作品の振り付けを手がけた出演者二人は、「幽霊劇」である能楽という芸の独特な要素を活かし、『天の網島』の登場人物たちを夢に出て来る幽霊として演出した。幽霊を連想させる舞踊の動きには、観客を魅了するような詩的な美しさがあった。
二番目の演目『都見物左衛門』は見物左衛門という人物による、都の名所の紹介を見どころとする曲である。一中節の語りと二人の出演者の舞踊に誘われて、観客は京の都の名所を想像裡に呼び起こすのである。坂東勝友氏が演じた見物左衛門の滑稽な姿は魅力的で、この曲が持つ元来の面白さがたっぷり味わえた。
いずれの演目でも観客の目は舞踊の上品さと華麗さに奪われたが、耳は一中節の語りに魅せられていた。三味線の音と伴に響く、語り手の声の幅広さと深さが印象的だった。能楽空間には三味線と浄瑠璃の響きがよく合うのだと、初めて気づかされた公演だった。
演劇学においては、最低限の舞台装置しか使用しない能楽の舞台は「何もない空間」、言い換えれば「全ての可能性を有している空間」として高く評価される。しかし能舞台はそこに「何もない」というよりも、「見えないものがある」と言った方が相応しいかもしれない。能舞台は何よりもまず、過去の記憶を内在している。現在とは違う時代の思想が能舞台の片隅に組み込まれているのであり、能の演目もその思想と密接に関連している。そのため能の演目は、能舞台以外の場所で上演するのが極めて困難である。
もう少し具体的に論じると、能楽は聖なるものに対する尊敬が常識だった時代に生れた芸術である。そのため能舞台の空間は聖なるものへの尊敬を内包している。それは記号化された形で能舞台の構造に織り込まれている。現世と他界をつなぐといわれる橋掛り、舞台の後ろにある鏡板に描かれている神の存在を象徴する松は、明らかに聖なるものの表象だろう。能舞台の空間は、聖なるものの存在を認めないような思想を強く拒否していると言える。
そのため単純きわまりなく見えるが、能舞台は実はこだわりの多い上演空間である。結果として能舞台で実験的なパフォーマンスを上演しても、成功する確率は極めて低くなってしまう。たいていの実験的なパフォーマンスは能舞台の特徴に対する抵抗感から生れ、そのあまりにもまとまった独特な空間の雰囲気を破ろうとする試みになりがちだということも、公演が成功しにくい原因になっていると思う。
日本舞踊は能と同じく伝統芸能である。しかしだからと言って、能舞台での舞踊公演がいつも成功するとは限らない。特に心中物である『天の網島』を能舞台で表現するのは、リスクの多い試みだったと思う。争いや自害などの激しい人間感情の表現は能の演目にもあるが、能では流血の場面が視覚化されることはない。洗練された芸術表現であっても、能舞台の上で血を流すイメージは禁忌になっているのである。
本公演では『天の網島』の恋人たちが心中する場面が、おそらく最大のチャレンジだったであろう。紙屋が泣きながら最愛の小春を刀で刺して殺してしまうクライマックスで、流れる血は赤い布で表現される。その赤い布は小春の着物に付いていた物で、紙屋に対する彼女の想いの象徴であった。さらに小春が息を引き取った後、彼女の体から流れた血を暗示する布を使って紙屋は首を吊る。能に比べるとかなり具体的な表現なのだが、上品に仕上げられた迫力のある場面になっていた。
今回の公演は現代を生きる日本舞踊家が、一中節として歌い語られ続けている江戸時代の心中物語を、能舞台という空間の中で表現してみるという実験的な試みだった。公演は成功だったと思うが、それは能舞台の特徴をよく見極め、その特徴を充分配慮しながら舞踊の振り付けが行われたからだろう。この公演の優美なイメージは、観客の記憶の中に長く残り続けるだろう。
舞台芸術では実験的な試みが失敗すると、そこですべてが終わってしまう。後には何も残らない。しかし成功した実験は、芸術の世界全体の進歩につながるヒントを与えてくれる。現代演劇と伝統芸能はもちろん、各伝統芸能の間にも見えない壁のようなものが存在している。それは各芸能の基盤には、動かしがたいアイデンティティのようなものがあるからである。私たち現代人の芸術的思想は万能ではないことを示しているのは、古典芸能と現代の舞台芸術の交流を困難にするその壁である。ただそれに揺さぶりをかけることは、現代芸術、伝統芸能の新たな可能性を見出すことにつながる。それぞれの芸能の性質や特徴を大事しながら、その壁を壊すことに挑むようなパフォーマンスを目撃する機会がもっと増えたらいいと、本公演を観て思った。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■