鶴山裕司さんの連載抒情詩『羽沢』『第012回 本の家/女の子のともだち/my birthday』をアップしましたぁ。今回もタイプの違う抒情詩を書き分けておられます。抒情詩としては長い部類に入ると思いますが、鶴山さんに詩の長さについてお聞きしたところ、『いつも長い詩を書くとは限りませんが、なんとなく悲しげな短い抒情詩はイヤですね』といふお返事でした。かっちりとしたお答えが返ってくるから鶴山さん、好きですぅ(爆)。
不肖・石川が鶴山さんとお付き合いを始めたのは、彼が第二詩集『国書』をまとめていた頃です。処女詩集『東方の書』もそうですが、バリバリのハードコア現代詩を書く詩人だと思っておりました。しかしその頃から鶴山さんは、『詩は形式的にも内容(思想)的にもなんら制約のない自由詩である』といふ詩論を展開しておられ、文字どおり彼の確信を実践し始めたんですね。金魚屋で連載詩をお願いして、それが抒情詩の連載だとわかった時にはちょっと驚きました。
不肖・石川が見ていても、鶴山さんの『詩は原理的に自由詩である』という定義はじょじょに浸透しつつあると思います。言われてみれば当たり前のことですから当然ですが、これを確固たる思想基盤とするのはそれほど簡単ではないやうです。たとえば詩の世界には「現代詩手帖」さんという歴史ある詩誌があり、そこを主な発表場所としている詩人さんたちは、『詩は原理的に自由詩である』という定義にうなずきながら、現代詩という呼称に固執している気配があります。もしかしたら「現代詩手帖」さんの不興を買うのを恐れているのかしらん(爆)。
でもそんなことは、鶴山さんの原理論的確信とも、「現代詩手帖」さんともまったく関わりのない杞憂だと思いますよ。『詩は原理的に自由詩である』という思想に基づけば、戦後詩と同様に、現代詩も戦後に生まれた詩の流派(エコール)の一つだと定義した方がすっきりします。現在書かれている詩は現代詩だと定義することもできますが、現代詩という呼称が新たな詩の表現として認知されたのは、1950年代以降のことだからです。
また雑誌の誌名が時代とともに古びて感じられるようになるのは当たり前のことです。ただまあ作家は結局のところ、思想的核心が生命線です。特に詩人のやうに、好きこのんで苦しい道を選んだ作家はそうぢゃないでせうか(爆)。求められてもいない現世的なしがらみに勝手に足をすくわれているようぢゃ、たいした作品は書けないだろうなぁと石川は思うのでありますぅ。
■ 鶴山裕司 連載抒情詩『羽沢』『第012回 本の家/女の子のともだち/my birthday』 pdf版 ■
■ 鶴山裕司 連載抒情詩『羽沢』『第012回 本の家/女の子のともだち/my birthday』 テキスト版 ■